米の支援下にある反イランテロ組織MKO
イランイスラム革命最高指導者のアリー・ハーメネイー師は今月20日、同国南部シャーチェラーグ聖廟におけるテロ事件の殉教者の遺族らと会談した際、反イランテロ組織MKOモナーフェギンおよび、彼らによる多数の犯罪について触れました。
モジャーヘディーネ・ハルグもしくはイラン人民戦士団を自称するMKOは1965年、テヘラン大学卒業生ら数名により結成されました。この組織は当初、マルクス主義傾向をあらわにしなかったものの、その後の1975年にはイデオロギー色を強め、マルクス主義傾向を公然と示しました。また、この組織の指導者や幹部らは融合・折衷的な思想を追求し、イスラムにマルクス主義を融合させることを考えるようになりました。しかし1979年のイラン・イスラム革命後は、イスラム圏であるイランやその国民に対する多数の犯罪を働いたことにより、ペルシャ語で「偽善者」を意味するモナーフェギンの名称で知られるようになりました。
MKOは、イスラム革命勝利の経過において際立った役割を果たすことはありませんでしたが、その偽善的なアプローチの中で、自らがこの革命や革命精神あふれる人々と同調しているように見せかけようとしました。このため、1979年にバニー・サドル氏がイラン初代大統領に選出された後にこのテロ組織は、自らの悪しき目的および権力への接近を果たそうと、同氏の事務所に近づきました。そしてこの時期、大統領となったバニー・サドル氏と連携・調整して、イランイスラム共和国の建国者ホメイニー師に対する様々な反対行動、革命組織への襲撃、ホメイニー師の教友や弟子への攻撃などを、表向きには同師を支持・同調すると見せかけながら行ったのです。
バニー・サドル氏は1981年6月21日に政治的能力のなさを理由に弾劾されましたが、MKOはその翌日、体制に対する武力闘争を宣言し、爆弾などによるテロ攻撃といった手段に出ました。MKOはこのような段階に突入したことで、無辜の民を殉教させるだけでなく、当時のイランの体制責任者や首脳・指導部関係者らもテロの標的としはじめました。1980年代およびそれ以降にMKOが引き起こした事件としては、1981年6月27日のイスラム最高指導者暗殺未遂、その翌日のイスラム共和党事務所爆弾テロ事件、また、ベヘシュティー師および体制指導者ら72人が殉教したテロ事件などが挙げられます。
MKOはさらに、1980年代に対イラク戦争が始まってからは、敵国イラク・ディヤーラ州にある軍事基地キャンプ・アシュラフに拠点を据えました。イラクがイランに押し付けたこの戦争中にMKOが行った、イラク軍のスパイとしての活動や多くの背信行為は、すでに隠されたものではありません。イラク領内のMKO要員らは、イスラム共和国たるイランに対して多数の破壊活動を実行しました。イランと交戦中の敵国の利益をはかったスパイ活動、電話盗聴や通話内容の暴露、イラン軍への攻撃を目的としたイラク旧バース政権軍への軍事要員の提供、心理戦や噂の拡散によるイラン軍の戦線後方部隊の弱体化や霍乱, イラン国内各都市の爆撃や死傷数・破壊状況に関する統計の提供, イラク軍作戦の一部への参加、さらには直接の軍事攻撃などは、対イラク戦争中にMKOが行った背信行為の一例です。
対イラク戦争末期には、合計4000人から5000人にもなる25の部隊にまでなったMKOは、イラク政府の支援を受けてイラン西部の国境を攻撃しました。しかし、MKOに対してイランの戦士らが行った、同国西部ケルマンシャー州メルサードでの作戦では、MKOのメンバーを約1600人から2000人排除し、およそ1000人も負傷させました。
MKOは、2003年のアメリカによるイラク侵攻と同国サッダーム政権の転覆、そしてイラクに潜り込み始めてからほぼ30年が経過した後、イラク当局の定めた期限に従いアメリカの同意のもと、2012年に、かつて米軍が駐留していたイラク首都バグダッド近くのリバティ基地に拠点を移しました。その後は報道などから、この拠点にいたMKOの残存メンバー280人がリバティ基地からアルバニアに移されたことが判っています。これは事実上、30年にも及んだMKOのイラク潜伏の終焉を示しています。
このキャンプには現在、約 2,500 人のMKOメンバーがおり、アルバニア政府の治安機関の保護下に置かれています。
アルバニアの拠点にいるMKOは現在、新たな方法でのイラン攻撃に取り組んでいます。そのいわゆる銃器などによらないネット空間などでのソフト戦争の例には、イラン国家や体制に対する嘘とフェイク ニュースの公表、イランへの核疑惑提起と同国の核の権利の疑問視、人権蹂躙疑惑の提示などを通じた、世論のかく乱や心理作戦、人々の思考の書き換えなどが挙げられます。