ノウルーズの哲学
ノウルーズという言葉は、ペルシャ語の新しいを意味する「ノウ」と日を意味する「ルーズ」の二つの単語から成っています。
この名詞は二つの意味で使われます。ひとつは、春分の日、新しい年の始まり、もうひとつは6日目のホルダードの日です。
ノウルーズの誕生
ノウルーズの起源と出現の時期は正確には分かっていません。フェルドウスィーのシャーナーメなど一部のイランの古い文献には、キューマルスがノウルーズの創始者として紹介されています。シャーナーメの中でノウルーズの誕生はこのように語られています。ジャムシード王はアゼルバイジャンを通過する際に、そこに彼のために王座を設けるよう命じ、黄金の冠を被ってそこに座りました。彼の黄金の冠に太陽の光が届くと、世界は光にあふれ、人々は喜びに沸き、その日を新しい日、つまりノウルーズと名づけました。一部の歴史的言い伝えでは、ノウルーズの始まりはバビロニア人に関連付けられています。この言い伝えによれば、イランでノウルーズが広まったのは紀元前538年、つまりアケメネス朝のキュロス王の時代に遡るとされています。
ノウルーズの祝祭は、イラン人の最古の祝祭であるとされ、その根源を古い歴史の中に探ることができます。ノウルーズはフェルドウスィーのシャーナーメ同様、イラン人のなくてはならないアイデンティティです。この古い伝統には多くの哲学があり、今夜の番組ではその一部をご紹介してまいりましょう。
ノウルーズ、イラン人の天文学の知識の現れ
ノウルーズの祝祭は、春分の日から始まります。天文学において北半球の春分は、太陽が地球の赤道を通過し、北のほうに向かう日です。これはイラン暦のファルヴァルディーン月1日に当たり、西暦では3月21日か22日に相当します。
世界最古の祝祭であるノウルーズは、祖先が地球の動きを正しく把握し、地球の鼓動と共にその記念日を決定し、毎年祝ってきたということを示しています。イランの文化研究者ジョネイディ博士は、ノウルーズに関して、イラン人は数千年前に数学と天文学の知識に基づき、春の始まりの日を認識したとしています。イラン人はこの日が世界に緑を芽吹かせる日であることを理解していました。これはイラン人の天文学の知識を示すものといえるでしょう。
ノウルーズ、イランの文明をつなげるもの
ノウルーズの祝祭におけるイランの哲学に加えて、ノウルーズの祝祭は、イラン高原の文化圏の幅広い地域、中国の北西、西の国境から中央アジア、小アジア、中東までにおいて行なわれています。古い部族の間の文化的結びつきのための要素は、共通の季節、生活様式、生計の方法、文化の一部となっています。
祝祭は5つのカテゴリーに分けられます。古代・伝説・季節の祝祭、宗教の祝祭、国の祝祭、家族の祝祭、そして地域の祝祭です。こうした中、ノウルーズの祝祭は、時間の経過と共に、社会の様々なグループと文化が融合し、この5つのカテゴリーのすべてに属します。ノウルーズは、古い伝説と共に、自然の法則や季節の移り変わりについての古代イラン人の知識により形成され、宗教的な信条も織り交ぜられ、国の祝祭になりました。この行事は同時に、最小の社会的集合体、つまり家族の行動にも影響を及ぼし、各地で、土着の文化に基づいて、様々な民族の文化の形に近づけていきました。
ノウルーズと農業の結びつき
農業が季節の移り変わりといった自然の法則に結びついていること、季節が変化する時期を理解することはイラン高原の住民にとって非常に重要なことでした。このため、イラン高原の最初の暦の決定に加えて、自然を守るための祝祭が誕生しました。こうして春の始まり、農作業の開始において、ノウルーズの祝祭を行うことは、農民にとっての哲学になっています。彼らはノウルーズの祝祭を行うことで実際、自然の復活、農作業の開始を祝い、冬の寒さに別れを告げます。
イランの社会学者モアイエドファル博士は、次にように述べています。「ノウルーズのメッセージはイラン全土において、変化を告げるものであり、おそらくこれにより、一部の思想家は、イラン人は他の国民よりも変化を好むと考えている。とはいえノウルーズは聖職者によって導かれ、その拠点は古代の礼拝所である。歴史の中で、季節の変化と結びついた祝祭では、宗教的な儀式が行われ、人々はこの儀式に参加してきた。宗教的な側面を持つこの儀式において音楽は基本的な役割を担ってきた」
ノウルーズにおけるイランの芸術の顕示
概して、イランを中心とする文化により意味を持つ公式行事は、イランの宮廷によって強化されました。一流の演奏家や歌手が宮廷で高い地位についており、彼らは貴族、王子、または王族の出身者でした。ノウルーズの儀式の音楽もまた幅広く、この祝祭時には、ノウルーズやその慣習を想起させるようなメロディーが演奏されていました。これはノウルーズの儀式だけのものであり、この時期の儀式で行われたり、あるいはある文化やある社会の大衆音楽の一部となっていました。このようにノウルーズの祝祭や儀式は、イランの古い歴史の中で、音楽や演劇と言った芸術を維持させるためのものだと見なすことができます。
イスラム後のイランのノウルーズ
概して、イランの古代の儀式はイスラム後も、イスラムの信条が融合し、社会で存続し、現在に至ります。明らかにノウルーズはこうした儀式のひとつであり、アッバース朝時代、その政府によって、広大な領土全域で奨励されていました。
実際、ノウルーズの儀式はイランの歴史で、中央政府のシステムにおける文化的同一をはかるための手段と見なされており、その土地における中央政府への文化の依存を保証するものでした。このため、ノウルーズの儀式はイスラム期において、イランの文化的領土を越えて、イスラム教徒の中央政府の下で国家、宗教の公式な儀式に変わったのでした。シーア派の歴史書において、ノウルーズとその慣習に関する数多くの言い伝えが見られ、イスラムにおけるノウルーズの特別な祈祷についても触れられていました。これにより、今日までイランの人々の間で、年の変わり目に読まれている祈祷は、ノウルーズの宗教的旋律のひとつとなっています。
ノウルーズは人類の文明の長い歴史の中で行われてきた祝祭です。歴史がノウルーズを物語るのではなく、歴史をはぐくんできたのがノウルーズなのです。