イランの名声、世界的な栄誉(173)
前回は、18世紀のイランの詩人で、伝記作家のアリーゴリー・ワズィーリーこと、ワーレ・ダーゲスターニーについてお話しました。今回も、前回に続いて、この伝記作家の生涯についてみていくことにいたしましょう。
ワーレ・ダーゲスターニーは1712年、当時のイランを治めていたサファヴィー朝の首都で、現在のイラン中部にあるイスファハーンに生まれました。彼が生まれて2年後、父親のモハンマド・アリーハーンは当時の為政者の命令により、家族を伴って現在のアルメニアの首都エレバンに赴きました。
父親が死去したことにより、ワーレ・ダーゲスターニーは家族とともにイスファハーンに戻り、父方のおじであるハサン・アリーハーンの保護監督のもと、当時のイスファハーンの文学や学問の大家に師事し、勉学を開始しました。彼は、イスラムの聖典コーランを習得した後、ごく短い間に天賦の才によりアラビア語やペルシャ語、歴史、文学といった通常の学問を習得しました。しかし、保護者であるおじが政府の役職から解任されたため、やむなく勉学を途中で断念しました。
ワーレは、父方のおじの娘であるハディージェ・ソルターンに恋心を抱いていました。しかし、アフガニスタンの支配者マフムード・ホタクが政権を掌握し、イスファハーンを占領したことから、ワーレはハディージェとの別れを余儀なくされます。このことにより、彼は熱情的で悲哀に満ちた抒情詩を数多く吟じています。
ワーレは、1732年に20歳になったとき、ナーデルシャー・アフシャールが政権を掌握したことから、祖国を去ってインドに赴き、当時のインドのモハンマド王の家臣となりました。彼は、一生を終えるまでイランへの帰国を切望していましたが、1758年にインドのデリーにおいて、46歳でこの世を去っています。彼の亡骸はデリーで埋葬されましたが、彼の埋葬場所は明確にされていません。
ワーレの最も重要な著作に、イランやインドの詩人たちの生涯をつづった詩人伝があります。この著作は、数あるペルシャ語の伝記の中でも、ワーレ・ダーゲスターニー自身が独自の編纂方法を用いていることから注目に値します。
ペルシャ語で記された伝記の多くは、明白な枠組みや構造において、ある作家の生涯や作品を紹介しています。伝記作家は普通、自らの著作の序文においてまず、その著作を執筆するにいたった動機について語り、作品の執筆の前段階的な構想を読者に説明しています。ワーレ・ダーゲスターニーが、その著作『詩人伝』において語っている内容は、彼がある種の文芸評論書を執筆しようとしていたことを物語っています。
ワーレは決して、先人たちの名前や生涯について説明したり、その後の近代詩人の名前を収集しようとしたのではなく、自らの作品が、いわゆるワーレ自身の言う『評論』に基づき、芸術や学識を求める人々にとって、様々な角度から有益なものとなることを追求していました。
ワーレは、自らの思い描いた事柄を実行し、目標を達成するため、4つのテーマを設定しています。まず第1に、脚韻などの詩文を創作するための技術について説明すること、次に、古代やそれ以降の詩人たちの優れた詩作品を抜粋することです。そして3番目に、詩人や詩のテーマに関係していた当時の歴史的な出来事について説明し、最後に詩人や詩作品を評定し、格付けする、というものです。
ワーレは、伝記文学の執筆の主な目的として、記されたものの評価や査定、そして専門的ではない伝記作家への注意喚起や警告を挙げています。彼が『詩人伝』という作品を著したのは、インドにおいて伝記文学の執筆が最盛期を迎えているころでした。当時は、毎日のように新しい伝記が執筆されていたものの、これらの作品の多くでは伝記の執筆に当たっての正しい原則が守られていなかったのです。具体的には、伝記作家は互いに作品を写し書きし、模倣しあうという有様でした。このため、ワーレは詩人や詩に対する批判的な見解を持って注意喚起し、当時没落しつつあったと思われる詩文の創作技術に新風を吹き込もうとしたのです。
ワーレは、自らの生きていた時代の文学を強く懸念しており、15世紀のティムール朝の為政者スルタン・フセイン・バイガラ以降は、詩人や詩が衰退してしまったと考えていました。ワーレの見解では、当時の詩人たちの表現方法が過激な方向に走り、ただ単に韻律の揃った言葉を並べる人々が詩人だとみなされていたのです。このことから、最もデリケートな技能とされていた詩文の創作技術の権威は、次第に失墜し、嘲笑の種にまで落ちぶれてしまったのです。
ワーレは繰り返し、自分の生きていた時代の詩人や、詩人を自称する人々の多くはそれほど学識がなかったと明言しています。しかし、こうした批判の一方で、彼は平等の原則を守り、これらの各人の作品の中で比較的優れたものを賞賛しています。
ワーレが生きていた時代は、詩文においてインド式が最も盛んになり、新しい方法としてもてはやされました。この時代の新しい方法とは、抽象的な空想に基づき、詩の中で微妙な意味合いや一風変わった暗喩を用いる詩人による形式をさしています。こうした形式は、15世紀から16世紀のペルシャ語詩人のバーバー・フェガーニー・シーラーズィーに始まり、17世紀の詩人サーエブ・タブリーズィーや、ビーデル・デフラヴィーにより完成されました。しかし、この形式は次第に過激な方向に向かい、衰退していったのです。実際に、この方式に従った人々の詩の多くは、稚拙で理解しにくいとされています。
ワーレは、『詩人伝』において、ゾフーリー・トルシーズィーの詩文を持って、この「新形式」は終焉を迎えたと断言しており、ペルシャ語で詩を吟じていたインド詩人の多くに支持されていた、過激な特徴のあるインドスタイルを、文学の逸脱と衰退とみなしています。ワーレの批評では、トルシーズィーをはじめ、ヴァフシー・バーフギー、そしてショウキャト・ブハーリーという、インドスタイルの3人の詩人により、このスタイルがこの3人以降は衰退したとされています。また、この3人の詩人が辿った道により、他人は到底そうした形式を模倣できずに、わき道にそれていった、と考えています。
ヴァフシー・バーフギーは、大衆的な日常語での対話方式により、ゾフーリー・トルシーズィーは細やかな意味概念の考案により、そしてショウキャト・ブハーリーは空想的な方式により詩文を完成の域に至らせました。この3人は、自らが踏襲すべき方式から抜け出したものの、評論家の見解ではこれらの3人の詩人は進むべき方向を見失い、無意味なたわ言を語るという泥沼にはまったとされています。
ワーレ・ダーゲスターニーは、『詩人伝』において、詩人とされる指標について説明しようとしています。彼は、しかるべき学識や趣向がないにもかかわらず、詩人と自称する多くの人々の存在に苦しみながらも、詩人であることの指標を定め、詩人の本物と偽者を識別するポイントを提示しようとしました。ワーレが提唱するこうした指標を踏まえると、しかるべき学識や、詩文の本当の創作技術を持たずに詩人を自称する人々の多くが、詩人の範疇から除外されることになります。
ワーレが自らの著作において、本物の詩人であるか否かを識別する基準として強調しているのは、その人の母語や日常語への精通の度合い、巨匠に師事していること、そして詩の天才であることの3つです。ワーレは特に、生まれつきの詩の才能を持っていることに強く拘泥しており、詩人であることとは神から授かった天分であり、後から努力して獲得できるものではない、と考えています。
ワーレの著作『詩人伝』においては、ペルシャ語の詩の分野での、ワーレの奥深い見解が見て取れるとともに、彼の知識の幅広さが伺えます。たとえば、ワーレは名高いペルシャ語詩人サアディについて説明する際に、ペルシャ語の抒情詩がたどった歴史的な変遷にスポットを当てていますが、これは文芸評論家の視点では、当時すでにワーレがこうした見解に到達していたこと自体、彼が幅広い文学的知識や正確な見解を有していた事を示すものだとされています。
ワーレの見解では、抒情詩の創作技術の考案者はサアディだとされ、過去のいずれの抒情詩の巨匠たちも、サアディが持つ美しさには及ばない、とされています。また、サアディより前の抒情詩は、人物を賞賛する頌詩の断片であり、実際には抒情詩ではなく、簡略化された頌詩であると考えられています。
このような文学に対する歴史的な捉え方は、ワーレの伝記作品における卓越した特長であり、ペルシャ語によるそのほかの伝記にはあまり見られないものです。ワーレは、詩や文学が進化のプロセスをたどっている事から、詩文は全てその歴史的な領域において研究されるべきである、と考えています。
次回もどうぞ、お楽しみに。