モハッラム月、献身と殉教の月
アラブの人々は、イスラムが出現する前から、モハッラム月を尊重し、この月の戦争や流血は禁じられていました。
モハッラム月に戦争を禁止することは、アラブの部族の間の長い衝突を終わらせ、和平を呼びかけるための手段の一つとされていました。無明時代にこのような伝統が続けられ、イスラムの出現により、この宗教がそれを認めたために、すべてのイスラム教徒にとって法的なものとなったのです。
イスラム暦61年、ウマイヤ朝の圧政的な政権は、モハッラム月に、現在のイラク南部のカルバラで、預言者ムハンマドの孫であるイマームホサインとその教友たちを殉教に至らせました。このときから、モハッラム月は、イマームホサインの名とともに記憶され、善を勧め、悪を否定し、預言者ムハンマドの宗教的な価値観を復活させるために蜂起した人々の献身と勇気を象徴するものとなっています。
イスラム暦61年モハッラム月10日、歴史はある出来事を目にしました。その出来事は、時や場所を超え、すべての時代において、人々に影響を与えることになりました。
このときの出来事を見ると、イマームホサインのこの蜂起における根幹となる目的や思想は、宗教義務の遂行にあたったことが分かります。神への服従を誇りとする人間は、宗教義務を遂行し、神の満足を得ること意外に、何も望んではいないのです。
イマームホサインに、当時の圧制に対する蜂起を決意させたのは、ウマイヤ朝の政権とその社会が、イスラムの教えから逸脱していたことでした。これは、預言者ムハンマドの死後、50年の間に少しずつ形成された苦い事実でした。預言者の遺言が忘れられ、預言者一門が孤立し、イスラム社会の精神性が薄れ、権力者が富を蓄え、誤った慣習が広まったこと、これらが、社会が無明時代に戻る要因となりました。
この頃、イスラム共同体の運命が、暴君ヤズィードという腐敗した人物の手にゆだねられ、イスラム教徒の誇りが損なわれていました。預言者のような高潔な人物による指導を経験していた社会が、そのときには、ヤズィードという名の堕落した人物によって支配されていたのです。
ヤズィードは、イスラムの原則を無視し、腐敗や堕落に走りました。自分の不当な利益だけを考え、それを確保するために、宗教を捻じ曲げ、人々に圧制を加えるような統治体制、イマームホサインは、そのような体制に抵抗していました。その一方で、イスラム社会に卑屈な精神が広まり、イスラム共同体から、無気力で無関心な人々が生まれていくのを目にしていました。彼らは真理を見極めていながら、自分の利益の確保と現世の楽しみのみを追求していました。
ヤズィードとその側近たちにとって、イマームホサインのような偉大な人物に忠誠を誓わせることは、非常に重要なことでした。しかしイマームホサインは、いかなるときも、ヤズィードと和解することはありませんでした。なぜなら、ヤズィードに忠誠を誓うことは、彼の腐敗した統治体制を認めることを意味したからです。イマームホサインは、敬虔な人間を装う人物が権力を握ることの危険を理解し、イスラム社会に政治的、社会的、宗教的な目覚めを作り出そうとしていました。イマームホサインはこのように語っています。
「宗教は、彼らにとって、言葉遊びの道具に過ぎない。彼らは宗教を、彼らの現世での利益を満たす場合に限ってのみ、望んでおり、その教えの中に都合の悪いことがあれば、信仰者は少なくなる」
ウマイヤ朝は、宗教を、自分たちの政治的な目的を遂げるための手段とみなし、宗教的な内容を内側から否定しようとしていました。イマームホサインは、このような逸脱を理解し、当時の統治体制に対して立ち上がり、その社会の政治的な状況を説明しようとしました。そして、ヤズィードに忠誠を誓おうとはしませんでした。イマームホサインが忠誠を誓わなかったため、メディナでの状況は困難になりました。そのため、イマームホサインは、メディナを離れ、メッカに赴くことを決意しました。
イマームホサインは、自分の蜂起を整えるための機会をうかがっていました。当時、メッカの町は、イマームにとって、活動を続けるために好ましい選択肢でした。特に、メッカ巡礼の時期が近く、大勢の人がメッカに集まることは、イマームにとって絶好の機会になるはずでした。イマームホサインは、メディナを離れるときに、このように語りました。「私は祖先の共同体を改めるためにメディナを離れ、善を勧め、悪を否定する」
イマームホサインがメッカに入ったことで、彼は蜂起のための大々的な努力を開始しました。この頃、イラクのクーファやその他の地域の多くの人が、イマームに忠誠を誓おうとし、さまざまな計画を立ててイマームホサインをクーファに招こうとしました。しかし、統治体制からの締め付けがあったとき、彼らはそれを恐れ、忠誠の誓いを破りました。また、欺かれてイマームへの支援をやめる者たちもいました。
現世にとらわれた人々は、イマームホサインが預言者の孫であることを知りながら、彼を助けようとしませんでした。イマームホサインは、家族や教友たちとともに、メッカ巡礼の旅を途中でやめてクーファに向かいました。しかし、クーファに到着する前に、途中のカルバラの地で、ヤズィードの軍隊に包囲されてしまうのです。彼はそれでも、屈服しませんでした。こうして、モハッラム月の10日、イマームホサインは、その教友たちともに、カルバラの地で殉教しました。
イマームホサインの蜂起は、政治や社会の分野でさまざまな影響をもたらしました。そして、何世紀もの時が経過した今もなお、イマームホサインの名は、人々に大きな熱情を呼び覚まします。イマームホサインの運動は、時代や場所に関係なく、真理を求めるすべての人間に認められるような原則に基づいています。
イマームホサインの神聖な蜂起のすべての段階において、公正の追求と圧制の排除が見られます。イマームホサインの目的に、権力の追求はみじんも見られません。そこにあるのは、人々の幸福を求める心と美徳です。そのため、この運動は常に、人々に強い影響力を及ぼしてきたのです。
イランのイスラム革命と圧制の排除は、イマームホサインの蜂起の価値観や教えからヒントを得て形成され、勝利を収めました。イスラム革命は今もなお、このような教えに基づき、圧制者に対抗する道を歩み続けています。
明らかに、神は世界が、清らかな人物によって統治されることを望んでいます。この至高なる目的に反した流れが見られるとき、神を求める人間は蜂起に立ち上がり、人類の解放のために命をささげます。こうしたことから、イランの若者であるホジャジー氏は、テロ組織ISISとの戦いの中で、イマームホサインの蜂起に倣い、宗教を悪しき目的のために利用し、そのためにあらゆる手段に訴える圧制やとの闘争の中で、勇敢に抵抗したのです。
イマームホサインが蜂起によって殉教した出来事は、一日だけの出来事ではありません。その影響は永遠に続きます。だからこそ、現在、ホジャジー氏のような若者が、洞察力と見識、宗教的な知識によって、ISISの根拠のない力をあざけり、自身の殉教によって、イマームホサインの殉教にまつわる出来事を連想させ、再び、人々の良心を目覚めさせようとしているのです。
イスラム暦61年のモハッラム月、特に、イマームホサインが殉教したアーシュラーの日の教訓は、時代と場所を超えて今も広がっています。