May 02, 2022 21:20 Asia/Tokyo
  • 断食明けの祝祭に寄せて
    断食明けの祝祭に寄せて

現在、イランを初めとするイスラム諸国では、数日間にわたる断食明けの祝賀のムードが漂い、1ヶ月間の断食の後、独自の方法でこの日を迎えています。この祝祭は、イスラム教徒が最も盛大に行う祝祭の1つです。

この祝祭日に喜びを感じるのは、断食などの宗教的な行為により、自らの人格や言動に、人間性や倫理面での変化があった人々です。今夜は、断食明けの祝祭にちなんだ話題をお届けする事にいたしましょう。

 

イスラム暦の10月に当たるシャッヴァール月の1日は、断食明けの祝祭日とされています。イスラムの大きな祝祭の1つであるこの日は、フェトルの祝祭と呼ばれ、イスラム教徒は1ヶ月間の断食を無事終えたことを神に感謝し、断食明けを祝います。すなわち、この日は宗教的行為や自己形成の月であるラマザーン月への別れを告げる日なのです。

 

断食明けの祝祭日には、断食をすることは禁じられており、人々は自らの心に潜む欲求の抑制や敬虔さの獲得といった1ヶ月間の修練の後、盛大な集会を結成して断食明けの礼拝を実施します。聖なる月ラマザーン月は、神から聖なる宴に招待される月であり、この宴の終焉が断食明けの祝祭となります。この祝祭は、神への服従のシンボルであり、また神の僕に対する神の満足の日でもあります。神がその僕に満足することは、神の最高の恩恵にほかなりません。

 

また、この祝日は、1ヶ月間にわたり断食をし、神の宴に出席し、コーランの下された聖なる夜・ガドルの夜に祈祷をささげ、コーランを朗誦し、神に罪の赦しを願った人々がその報償を受け取る日でもあります。断食明けの祝祭日の美徳について、神は次のように述べています。

 

“我は、ラマザーン月の1ヶ月間に断食や礼拝を行った信徒たちへの報償として、彼らに満足し、彼らを罪の赦しの対象とした”

 

断食の終了により、真実の泉からは清水が沸き起こり、また人間はその清らかな本質に立ち返ります。人間の本質は、泉から湧き出る清水のように、自ら沸き起こるものです。泉の底からは、一瞬ごとに新しい水が湧き出てきます。祝祭は、アラビア語でエイドと呼ばれますが、これは本来、新たな立ち返りや、一瞬ごとに新しく生まれ変わることを意味しています。

 

このため、常に自らの本質に沿って行動する人は、一瞬ごとに祝祭を祝っていることになります。それは、そうした人々があらゆる瞬間に真理の新たな具現に直面するからです。しかし、年間を通して罪を犯し自らの本質に反して表面的にも内面的にも穢れ、本当の自分から遠ざかってしまった人に対しては、神はラマザーン月という、自らの幸福の下地を作るための精神的に重要なチャンスを与えます。

 

ラマザーン月には、断食をする神の僕たちは神との恒常的な語らいにより、自らの精神や魂をその本来の原始的な本質に近づけることになります。彼らはまた、断食を無効にする好ましくない行動を自粛し、自らの精神状態を信仰心により輝かせます。この明るさにより、人々の心には、罪という誘惑に立ち向かう決意が強まります。そして現在、断食をした人々の本質は神に服従する力や心の明るさにより、地獄の業火に耐えうる強さを増しています。こうして、彼らはラマザーン月の終了をもって、人間としての本当の自分に立ち返る日を、断食明けとして祝うのです。

 

言うまでもなく、人間が罪を犯さず、終日神への反逆を差し控えた日はこそは、その人にとっての祝祭とされ、この意味で私たちは1年間の全ての日を祝祭にできることになります。このことから、断食明けの祝祭の哲学に関して、シーア派初代イマーム・アリーは次のように述べています。

 

“今日は、我々にとっての祝祭日である。そして、神に逆らう行動をとらなかったその他のすべての日も、我々にとっては祝日となる”

 

このことから、断食をしなかったり、あるいは断食という行為が神への反逆や罪となる行動で汚されていた人は、本当の喜びを味わえない事がわかります。本当の喜びを味わえるのは、心が清らかで明るい精神を持ち、善良な行動や神への服従を心がけるとともに、その服従が神に認められた人なのです。

 

 

イスラム教徒は、断食明けの祝祭の到来により、ある種の精神面での喜びや快感を味わいますが、断食明けの祝祭をどのように迎えるかは、千差万別です。それは、それぞれの人がこの偉大な祝祭への思い入れや自らの人間としての資質や度量に基づいて、この祝祭をとらえ、その分だけ恩恵を受けるからです。

 

現在のイスラム神秘主義哲学者の1人、ミールザー・ジャヴァード・アーガー・マレキー・タブリーズィーは、断食を実行して断食明けの祝祭を迎える人々を、いくつかのグループに分類しており、その中で最もレベルの低い人々について次のように述べています。

「断食をしていながら、その本当の意味を理解していなかったり、また飲食のほかに断食を無効にする行動をなかなか自粛しない人、自分の体全体に注意を払わなかったり、他人への罵詈雑言や陰口、誹謗中傷、虚言などにより他人を苦しめ、自らの労を無駄にする人。このような人々は、断食明けの祝祭の日に、自らの存在を神に特別に注目してもらうか、もしくは断食明けの礼拝で罪の赦しを求めない限り、神のもとでは何の位置づけも得られない」

 

一方で、ミールザー・ジャヴァード・アーガー・マレキー・タブリーズィーは、断食をした上で断食明けの祝祭を迎える人々のうち、最も高い位置づけにある人として、次のような人を挙げています。それは、神のお告げの醍醐味、そして空腹やのどの渇きの苦しみ、そして徹夜での祈祷を忘れず、神のいざないに対して、自分は神の御前にありますと答えた人です。神も、そのような人々の行動を認め、自らとその預言者一門に近いところに場所を用意してくれるのです。

 

神のもとへの回帰、そして神に見えることを最も見事に解釈しているのは、コーラン第84章、アル・インシガーグ章、「切り裂かれる時」第6節だといえるでしょう。この節では、次のように述べられています。

 

“おお、人類よ、そなたは東奔西走している。そして、このような努力の結果、そなたは創造主なる神にまみえるであろう”

 

ラマザーン月の最高のクライマックスは、イスラムの聖典コーランが下されたことだと言えます。コーランでは、ラマザーン月について次のように説明しています。

 

“ラマザーン月は、コーランが下された月である。このコーランこそは、人類を導くための明白な論拠、そして真偽を区別する力を有している”

 

さらに、コーラン第17章、アル・イスラー章、「夜の旅」第82節には、コーランが下された背景哲学について、次のように述べられています。

 

“我らは、コーランから信者たちにとっての癒しと慈悲を下した。しかし、暴虐を行う人々には、損害を増やすだけである”

 

 

断食明けの祝祭は、神と人間の精神的なつながりを示す一方で、ある人とそのほかの人々とのつながりをも示しています。イスラムでは、神への服従は人々への奉仕と同一であり、礼拝などの宗教的な行為が奨励されているとともに、むしろそれ以上に他の人々に尽くす事が奨励されています。

 

ラマザーン月は、神に対する宗教的な義務のほか、神の僕たちに対する義務を果たす上でも絶好のチャンスといえます。イスラムは、貧困者と富裕層とに二極化した社会を認めていませんが、これはイスラムが富の公正な分配を命じているからです。そして、このことは、恵まれている人々が貧しい人々の権利を正式に認め、必要な折に自らの所有物の中から施しをしたときに実現されます。

 

このため、断食明けの祝祭には、イスラム教徒はまず自らの所有物の中から、断食明けに際して寄付するものを別にし、そして断食明けの礼拝を行います。この施しや寄付はフェトリーエと呼ばれ、神に服従できたことや神の恩恵に感謝する信徒たちが、恵まれない人々に分け与えるものです。そして、この行動により、神に対し自らの精神や財産を、あらゆる災厄から守り、他の人々も神の無限の恩恵にあずかれるよう求めるのです。

断食明けの際しての施し・フェトリーエは、ごく限られたものではありますが、きちんと計画的に徴収され、毎年イスラム社会の問題の多くを解決できるほど多くの金額にいたっています。

 


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