コーラン第23章アル・ムウミヌーン章信仰者(3)
今回も引き続き、コーラン第23章アル・ムウミヌーン章信仰者を見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
全ての人が、敬虔な人間の性質を身につけることなどできないと考える人がいるかもしれません。アル・ムウミヌーン章の第62節は、それに対してこのように述べています。
「我々は、その人の能力以上のものを誰にも負わせることはない。我々のもとには、真理を語る書物がある。そのため彼らに圧制が加えられることはない」
この節によれば、全ての人間に課された義務は一定ではありません。誰でもその人の肉体や思考、経済力に応じて義務が定められています。また、人間の行動が少しでも忘れられることはありません。全ての行動が記録されます。この事実を信じることで、人間は善や正しい行いへと励まされ、醜い行いを避けるようになります。
アル・ムウミヌーン章の第71節は、欲望に従い、真理に反することについて、意味のある簡潔な言葉でこのように語っています。
「もし真理が彼らの要求に従ったものであったなら、天と地、そしてそこにある全てのものは退廃していただろう」
世界の秩序は真理に基づいており、唯一の神の英知と真性を示しています。しかし、もし真理が人々の要求に従い、世界が人々の要求に沿って動いていたら、天と地、そしてそこにある全てのものは退廃し、世界中に混乱が広がっていたでしょう。なぜなら、人々の欲望には確かな基準や規則がなく、大抵、一元的であるからです。つまり、物事の近い将来、あるいは遠い将来の影響や結果を考えることがありません。そのため、真理が人々の要求に従う必要はないのです。
アル・ムウミヌーン章の第105節から111節は、地獄の人々との神の対話を述べています。神は、彼らに次のように語りかけています。「私の節があなた方に読まれなかったのか。あなた方はそれを否定したではないか」 すると、罪を犯した人々はこう言います。「頑なさと不幸が私たちを襲い、私たちは迷った民でした。主よ、私たちに猶予を与え、ここから出してください」 神はそこで、このように語ります。「地獄の中で遠ざかりなさい。私に語りかけてはならない。あなた方は私の信仰を寄せた僕たちを嘲笑していたではないか。だが今、私は彼らの忍耐に対して報奨を与えた。彼らは救われる人々である」
アル・ムウミヌーン章の第115節で、神は、否定の道を歩んだ人々に対し、世界は目的に沿ったものだとしてこのように語っています。
「そこであなた方は、我々があなた方を目的もなく創造し、あなた方は我々のもとに帰されないとでも考えているのか?」
この簡潔かつ意味の深い書物は、復活と行動の清算に関する最も明らかな理由を述べています。現世の生活は、これほど多くの計画を神が定めているにも拘わらず、もし本当にはかない現世のためだけのものであるならば、何の価値も意味もないものです。創造の秩序を見れば、創造世界は秩序の点でも、また壮大さの点でも、驚嘆に値するものであり、この世界の神秘は、学者たちの言葉を借りれば、人類の全ての知識をもってしても、大きな分厚い書物のほんの小さな一ページに過ぎません。私たちがこの世界について知っている事柄の全ては、実際、この書物のアルファベット程度でしかないのです。
人間は、私たちが知る限り、最も完全な生き物です。人間はその短い一生の中で、様々な問題と戦い、多くの出来事を経験します。人間という驚くべき創造物が創造された目的は、この世に生まれ、食事をし、服を身につけ、しばらくの間をこのように過ごした後、消滅し、そこで全てが終わってしまう、というだけなのでしょうか?もし本当にそうであるなら、創造とは何と無意味なものなのでしょう。これほど多くのシステムが、そんなに小さな目的のために創られたというのはなどと、本当に考える人がいるでしょうか?この壮大な世界は、より広大な永遠の世界のための前段です。そのような世界の存在こそが、私たちの生活に意義を与え、無意味なものから救い出してくれるのです。言い換えれば、来世のない現世の生活は正当化できるものではなく、完全に無意味なものとなります。
アル・ムウミヌーン章の後半の節は、復活と神について触れています。第117節を見てみましょう。
「また誰でも、神と共に他の対象を崇拝する者は、そこに何の根拠も持たない。間違いなく、その人の清算は神の御許にあるだろう。明らかに不信心者が救われることはない」
多神教徒は、先人たちの行いを盲目的に模倣することで、明らかな根拠のある復活を否定する一方で、多神教信仰は何の根拠もないのに受け入れています。明らかに、神は、見識的に理性を踏みにじり、多神教信仰という迷いに陥ったこのような人々の行いを清算するでしょう。この節は終わりに、「不信心者が救われることはない」と語っています。
アル・ムウミヌーン章は、「敬虔な者は間違いなく救われる」という言葉で始まり、「不信心者が救われることはない」という言葉で終わっています。