神の公正さ(2)
今回も引き続き、神の公正さについてお話しすることにいたしましょう。
前回の番組では、神の英知により、様々な存在物が創造されたということをお話しました。創造のシステムにおいて、存在物は創造世界の恩恵を享受する能力に関して、同じ条件を有しておらず、あらゆる存在物は決まった能力を有しています。このため、恩恵の源である公正で英知ある神は、すべての存在物にその能力に応じてそれぞれ異なった完成度を授けています。
なぜ人間は異なって創造されたのでしょうか?片方は完全に、もう一方は不完全な形で。一方は醜く、一方は美しく。ある人はお金持ちに生まれ、ある人は貧しい家に生まれる。前回の番組で述べたように、生命の世界における相違の存在は、英知あるものであり、相違そのものが、彼らの間に差別が存在することを意味するものではありません。見た目や形が違って創造されるということは創造の多様性につながり、それを不公正や差別と見なすことはできないでしょう。
この問題をさらに説明する際に、創造の質の違いは、生命世界の法的な必要性や結果にあるということに言及すべきでしょう。つまり創造の体制は、原因と結果に基づいており、原因なくして結果は生じません。原因と結果の関係もまた、決まった法則を有しています。つまり決まった原因には一定の結果が存在するのです。例えば、ある人たちは健康に生まれてきますが、ある人たちは目が見えなかったり耳が聞こえなかったり、障害を持って生まれてきます。実際、多くの要因がここで、二つの状況に影響を及ぼしています。遺伝子のような生理学的な要因、時間や場所といった要素、両親の精神的・肉体的な状況、さらには彼らの栄養状況がすべて胎児の形成に影響を及ぼしています。両親の血液型が適合しなかったり、あるいは病気にかかったり、妊娠時に身体を大事にしなければ、子どもに悪影響が及ぶのは当然です。そのため障害を持つ子どもが生まれる条件が整えば、そうした子どもが生まれるのです。
神は世界を最も善良な形で創造しましたが、私たち人間は怠慢や不注意、あるいはその他の理由によって、自ら様々な問題や災難に巻き込まれています。いずれにせよ、世界は秩序や法を有しており、法則なくして何事も実行されません。美しく健康な赤ん坊がこの世に生まれたとしたら、それは必然的にそうした原因や要素が並んだ結果です。さらにもし赤ん坊が障害を持って生まれるなら、それはそれ独自の要因の結果なのです。
人間が直面する問題の一部は、その行動に端を発しています。それはつまりその人自身がその中で役割を果たしているこということです。人間には意志があり、もし危ない道を歩むなら、そうした行動の結果に直面するでしょう。このような好ましくない状況は神の公正さと決して矛盾しません、たとえば誰かが交通規則に注目することなく、高速ででこぼこ道を走れば、痛ましい出来事に直面するでしょう。また泳ぐ技術をもたない人が果敢にも荒れ狂う海に身を投じるなら、たちまち溺れてしまうでしょう。明らかにこれに関して人間は自らの過ちの代償を支払い、もはや他人を非難することはできないのです。
また同時に、人間にとって好ましくない出来事が降りかかることがあります。人間はそれに決して関与することができず、それは人間の行動の結果ではありません。戦争の犠牲者や罪のない人に降りかかる痛ましい出来事のように。また障害を持って生まれた子供のように。もし両親がこのような子供が生まれる原因を作ったとしても、生涯ずっと苦しまなくてはならないその子自身にいったいどんな罪があるというのでしょうか?こうした中、神は償いをする存在です。このような災難や苦しみに直面している人に対して、神はその苦しみを軽減するため、楽園という高い地位や恩恵を彼らに与えます。シーア派6代目イマーム、サーデグはこのように述べています。
「楽園には、体に障害や問題を抱えている以外の僕が到達することのできない場所がある」
このため、障害を抱え苦しむ人に対して、神は多くの報酬を与えることで、彼らの痛みや欠陥を補っているのです。このように来世は無限であり、それに対してこの世は儚いものであることに注目すると、神の公正さの様々な側面を容易に理解することができるのです。
この他、災難や好ましくない辛い出来事が起こるのは当然のことです、こうした出来事にもかかわらず、生命のシステムには公正さが存在します。世界が公正さと英知に基づいて確立されているなら、なぜ世界のあちこちで時に台風や洪水、地震、干ばつといった災害が生じ、多くの破壊をもたらすのでしょうか?またどうして一部の出来事において多くの人間が死に至るのでしょうか?これらの災害は神の公正と一致しているのでしょうか?
この問いに答えるには、表面的で一面的な判断を控えるべきでしょう。好ましくない出来事や災害は破壊をもたらしますが、私たちの利害が出来事の良し悪しを図る手段となるべきではありません。あるいは私たちの利益を確保するものがよいもので、私たちに被害をもたらすものが悪いものであると考えるべきではないのです。なぜなら、このような自然現象に関する判断は、生命を支配する慣習への無知から来ているからです。
物質世界は絶えず変化します、世界の変化を注意深く見てみると、今、こうした変化の中で私たちに害をもたらしているものが、現代や将来において他者にとって利益になる可能性もあることがわかるでしょう。世界の動きはその目的の実現と生命の全体的な利益に向かっており、人々もこの道において害をこうむることもあるということを知るべきです。例えば、台風が起こる地域では、多くの被害が生じます。少し考えてみると、こうした台風は風が生み出したもので、雲が海から陸地に移動する原因となっていることがわかります。私たちは人間の生活における風や雲の役割を知っています。また、雲の移動や度重なる降雨の影響で、一部の人の家が被害を受けたり、破壊されたりすることもありますが、こうした雨は広大な平原を流れ、世界の人々の生活の手段を整えているのです。このため、様々な出来事に関して、それらの影響や結果を総合的に考慮し、正しい理解を行うべきなのです。
これに関して心が痛むこともありますが、多くの教訓を伴う経験に関して語ることは悪いことではありません。2004年12月26日、地球の一部が激しく揺れ、大きな被害を引き起こしました。インドネシアの近く、インド洋で発生したこの地震は、大きな津波を生じさせました。この津波は、時速800キロのスピードで押し寄せ、インドネシア、タイ、マレーシア、インド、スリランカ、さらには東アフリカの一部の国の沿岸を襲いました。この自然災害により、17万人が死亡、数千人が行方不明になりました。この出来事により、多くの家が破壊され、数百万人が住む家を失いました。津波のような痛ましい出来事の発生は、私たちに、なぜこのようなことが起こり、人間が犠牲にならなければならないのか?という疑問を抱かせます。
明らかに地震は自然現象であり、人間の意思を超えています。人間はこれまで、地震の発生を正確に予測することはできず、それによる破壊を抑えることはできません。地殻の揺れは多くのエネルギーを放出し、震源の周辺で破壊を引き起こします。自然現象は自然の通常の作用・反作用以外の何物でもありません。ときに私たちの前に災害という形で現れます。こうした現象は正確には世界を占めている原因と結果の関係に従っており、不思議な出来事ではありません。しかしながら人間の問題は、その一部の被害をコントロールすることはできないということです。こうした中、人間は神が授けた思考力により、多くの自然災害や破壊的な影響を乗り越えることができます。人間が地震の発生を防ぐことができないのであれば、科学的な方法を用いることでその被害を最小限に抑えることができるのです。