10月 04, 2016 15:28 Asia/Tokyo
  • 神の公正(4)

今回も前回の続きで、神の公正さについてお話しすることにいたしましょう。

これまでの番組では、神は幾つかの点から公正な性質を有しているということをお話しました。この点のひとつが、創造における公正でした。生命の世界における公正の問題について、創造世界は公正に基づいて確立され、神はあらゆる存在物にその能力に応じて恩恵を授けているということに言及しました。言い換えれば、創造における公正とは、世界はバランスの取れた集合体であり、その構成において完全なバランスが保たれており、すべてのものが自分の場所で善いものとして創造されているということです。神の公正についてのもう一つの点は、人間のための法制度における公正、生きるうえですべきことと、してはならないことの設定であり、これは「法の公正」と呼ばれています。その一方で、神の公正さには、人間の行動の審査における公正、「報いの公正」もあります。

 

神は人間に知性と精神性を持つにふさわしい存在物として、創造の導きに加えて、法の導きを享受させています。この二つの導きは互いを必要としています。言い換えれば宗教やイスラム法において人間を導くために生まれたあらゆる法は、生命の世界、とくに人間の存在を占める法を構成しています。

 

創造の法規、あるいは存在する世界を占める法規が公正でバランスの取れたものであるように、人類を導くための宗教的な教義の中で生まれた法規も、公正を中心にしたもので、バランスのとれたものです。神は人間を導くために、人間のニーズを満たし人間の才能を高める宗教の教えや知識を啓示によって伝えています。世界の神は法の制定において公正に行動しています。つまり人間の成長と完成を促す法の制定を怠らず、最も崇高な計画を幸福な人生のために人間に提示しています。神の公正さは、人間の善や向上に必要なものを過不足なく人間に与えることを必要としています。このため、イスラムでは人間の人生のすべての側面が注目され、人間の本能的、精神的なニーズを満たすために一つの点も見逃されていないのです。

 

法の公正の別の側面は、神は法や教義によって公正な体制を提示していることに加えて、その人が耐えられないような行動を義務付けてはいない、ということです。神は僕に対して慈悲深くあることから、その人の能力を超えたものを義務として求めず、それができないために咎めたりしません。これはコーランの数多くの節で述べられていることです。コーラン第23章アルムウミヌーン章、信仰者、第62節にはこのようにあります。

「そして我々は誰にもその能力以上のものを負わせない。我々のもとには(僕のすべての行動を記し、)真理を語る書物があるので、彼らは不当に扱われることはない」

 

こうして宗教の教義や義務を法制化する上で、個人の能力や状況が考慮されており、それは忍耐を超えたものではありません。これ自体、法が公正であることの証拠です。例えば病弱な人は一部の義務を免除されたりします。目の見えない人や病人は戦場に参加しなくてもよいとされています。

 

神が生命を公正に基づいて創造したように、実践的な法規や社会、経済、政治の体制においても公正さが中心に据えられています。言い換えれば、この世界の一角に広がる人類社会は世界を包括する公正な法規から免れ、公正なくして生き続けることはできないのです。あらゆる過不足や逸脱、侵略は公正の原則に反しており、人類社会はこうした原則を守らなければ崩壊に直面するでしょう。このように社会に関する事柄において公正は、あらゆる社会的、経済的な法規の基盤なのです。

 

イスラムでは公正の実現は非常に重要であり、神はそれを預言者の目的の一つと見なしています。コーラン第57章アルハディード章、鉄、第25節にはこれについて次のように述べられています。

「我々は自らの預言者たちを明証を授けて遣わし、彼らと共に(天啓の)書と(正義と悪を見分ける)天秤を下し、人々が正義を行うことができるようにした」

 

原則として、預言者の目的は、人々の心を信仰の光で照らし、彼らが宗教の至高なる教義によって成長できるようにすることであり、彼らが自身で公正に立ち上がり、社会や家族、政治、経済などの関係において公正に行動することができるようにすることです。このため、社会的な公正の確立は、預言者の目的の一つです。シーア派初代イマーム、アリーは社会的公正の重要性についてこのように述べています。「公正は社会の生命であり、圧制は死である」

つまり、圧制に身を委ね、圧制に屈する人々は、実際には死人以上の何物でもないということなのです。

 

もう一つの神の公正さを示すものに、「報いの公正」、あるいは人間の行動をはかる公正があります。神は公正を広めるために、預言者を明らかな理由と論拠によって遣わしました。あるグループは神を崇拝する教えを選択し、宗教に帰依しました。それに対して、別のグループは、神の導きに背を向け、横路にそれました。真理の道を選択した人々は献身と抵抗により、様々な困難に耐え、不正と圧制に耐えました。彼らの一部は、最期の瞬間まで真理の道において抵抗し、自らの命を捧げることも惜しみませんでした。これらの正しい人々を腐敗と放蕩に耽った犯罪者たちと同列に並べることができるでしょうか?

 

明らかに神はその創造物に圧制を加えることはありません。神の公正の確かな徴の一つは、神のもとで善人と悪人は同じ立場にはないということです。なぜなら、これらの人々を同列に並べることは、圧制や不公正と同じことだからです。コーラン第45章アルジャースィーヤ章、ひざまづくとき、第21節にはこのようにあります。

「悪行を重ねた人々が信仰を寄せ、ふさわしい行いをしてきた者たちと同じ扱いを受けると思うのか。彼らの生と死は同じだというのか。彼らは誤算をしている」

 

実際、神の報いの公正とは、神が人間の行動によって、その報いを決定するということを意味します。各人の罰や報酬は、公正に基づいており、これにより、善人が報酬を、圧制者が罰を受けることになります。この世界で人間のどんな小さな善行、または悪行も記録され、報いを受ける日にそれが審判されるのです。これに関してコーラン第21章アルアンビヤー章、預言者、第47節には次のようにあります。

「我々は公正の秤を最後の審判の日に設ける。そして誰にもどんな小さな圧制も加えられない。(善行や悪行が)一粒の芥子の重さほどであっても、それを持ち出し、我々がそれを審査するには十分である」

 

この節にによれば、その秤は非常に正確なもので公正そのものです。このため、誰もそこではどんな小さな圧制も加えられることはありません。善人の報酬が減らされることも、悪人の懲罰が増やされることもありません。最後の審判は非常に正確なもので、芥子ほどの重さの善行でも悪行でも行えば、私たちはその裁きを受けることになると言っています。

 

これらすべては、審判の日の審査が正確なもので、圧制を免れていることを証明しています。神は最後の審判の日のために、人間の行動をはかるための天秤を設けます、ハディースには、最後の審判の日の天秤は、行動に一点の曇りも見られない預言者やイマーム、清らかな人々であるとされています。審判の日、公正の秤が設けられ、神の公正は最も完全な形で現れます。そのとき、各人の運命、善行の方に傾くのか、それとも悪行の方に傾くのか、はその行動が載せられた天秤の動きにかかっているのです。