イランの陶芸とその歴史(2)
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イランの陶芸
今回の番組では、メディア王国時代からイスラム初期までのイランの陶器製造についてお話しすることにいたしましょう。
その杯は人間の知性が創造したもの
慈愛に満ちてその額の上に百の口付けをする
この壺の作り手はこのような優美な杯を作る
そして再びそれを地に打ち付ける
今回は、イランの大詩人ハイヤーム・ネイシャーブーリーの四行詩から始めました。
この詩人は11世紀末から12世紀初めに生きた詩人です。彼は一部の詩の中で、人間が泥と土から創られたことについて触れており、実際、彼の時代に繁栄を遂げていた陶器製造を人間の想像になぞらえています。人間の創造に「優美な杯」という言葉を当てたのは、コーランの節を指摘したもので、その中で神は人間を最も美しい形に創造したことを強調しています。
とはいえ、ハイヤームは、人間が壺作りの泥と同じように、乾いた泥から創られたと神が述べている別の節をも指摘しているようです。その中でコーラン第15章アルヒジュル章、ヒジル、第26節を挙げることができ、神は人間の創造といった過去の恩恵について述べた後、自らの偉大さのしるしについて語っており、人間を陶器のように乾いた泥から創造したと述べています。

今回の番組では、この詩の解釈ではなく、土や粘土から作った陶器がイランの宗教や国民の歴史や文化、言語において高い地位にあり、人々と社会から切り離すことのできない芸術であるということをお話します。
今回も、イランの陶器の歴史をふりかえり、その様々な時代についてお話しすることにいたしましょう。
紀元前7世紀から8世紀のメディア王国時代の陶器については、多くの情報はありません。この時代の作品はイランの西部と北部で、見つかっています。考古学的発掘は、この時代に、釉薬のかかった陶器の技術において多くの革新が行われたことを示しています。

紀元前600年期のアケメネス朝時代の到来により、陶器製造には多くの発展が見られました。この時代に、陶器は新たな形で製造され、その例としてリトーン、あるいはタクークを挙げることができます。リトーン、あるいはタクークは古代、牛や魚、鳥といった動物の形につくられた器のことで、それらは飲み物を飲むために使用されていました。リトーンの前の部分は動物の形で、動物の角が曲線を描いて後ろに繋がっています。アケメネス朝時代のこの器の普及は、装飾芸術の頂点を示すものであり、その根源はメディア人の芸術の中にあります。一方で見つかったこれらの器のいくつかは、陶器であり、その表面は美しい彫刻で装飾されています。

イラン南部のペルセポリスや南西部のシューシュの発掘は、宮殿の壁に積まれたレンガには釉薬がかかっており、この当時の陶器の表面には動物や兵士の姿が描かれていたことを明らかにしています。
紀元前3世紀から紀元後3世紀までの間、パルティア帝国がイランを支配していました。その時代はイランの文化や文明がギリシャなどの文化と融合し、イランの芸術もまた多くの変化を遂げました。考古学的発見は現在のイランの国境を超えて、パルティア帝国時代の芸術が中央アジアやシリア、イラクで輝かしいモデルとなっていたことを示しています。こうした中、イラン国内にもパルティア帝国時代の遺跡は多く存在します。
考古学者はこの広大な土地での発掘物から、陶器製造はパルティア帝国全土で統一したものではなく、その繁栄は、人々に受け入れられた程度や、器の使用方法によるものであった、という結論に達しています。とはいえ、パルティ帝国時代の金や銀の器への注目は陶器製造を減少させましたが、依然としてこの時代はイランでの陶器の歴史において重要となっています。
パルティア帝国の時代の陶器は二種類に分けることができます。一つは釉薬のかかった器で、もう一つはかかっていないものです。釉薬のかかっていない陶器は多くがお椀や小さな茶碗、うすでの下の部分が凸状の器であり、それらには装飾が全く施されておらず、日常生活で使用されていました。一方で、釉薬のかけられた器の多くは、為政者によって、宮廷の中で使用されており、中央政府が置かれた地域で作られていました。これらの釉薬の色は明るい緑から瑠璃色となっていました。この時代のものには、食糧を備蓄しておく大きなかめや人間の模様が描かれた陶器製の棺、花瓶の形をした器、水筒などがあります。

3世紀から7世紀のサーサーン朝時代には、陶器はわずかに変化し、多くがパルティアの伝統を引き継ぎました。ビーシャープール、スィーラーフ、キャンガーヴァル、ダシュトゴルガーン、トゥーラングタッペ、タフテソレイマーン、タフテアブーナスル、ガービーラーといった地域で、サーサーン朝時代の陶器が発見されています。サーサーン朝時代にはさらに、緑がかった、あるいは青みがかった瑠璃色が陶器の最も重要な色でした。
サーサーン朝時代の陶器も、釉薬のかかったものとかかっていないものの二種類があります。取っ手のついた、あるいはついていない首の短い大きな水差しや、洋ナシ形の水差し、三つ足のついた水差し、旅行用の水筒などがこの時代に作られていた陶器作品です。さらに、取っ手のついたお椀や陶器製のこし機、動物の形をした陶器製の器、女性や男性の形をした彫像も挙げることができます。これらの陶器の一部には上薬がかかっていないものがあったり、一部には緑や青みがかった瑠璃色の上薬がかけられており、中には白や茶色のものもありました。陶器の装飾は幾何学図形や植物、あるいは複雑な図形を伴い、動物や人間の模様のついた印もあります。

7世紀終わりのイスラム教の到来と、8世紀、9世紀のその発展にあわせて、陶器もまた新たな芸術として復活しました。この時代の始まりにおいて、イランの陶器職人はある程度までイスラム以前の伝統を継承していましたが、次第に数多くの要因により、イラン全国の芸術家は、上薬や装飾、器の形において新たな変化を生み出しました。これらの革新において、陶器職人の宗教的信条や東洋、とくに中国の陶器との出会い、最終的に伝統的な様式の継承が重要な役割を担っており、イランの陶器工房において、美しい器が作られるようになりました。
古代都市やイスラム初期の政治の中心地における調査や数多くの陶器製の器や水差しの発見から、陶器はサーマーン朝、ガズニー朝、ブワイフ朝の各時代において特別な信用を得ており、目覚しい発展を遂げたことを示しています。さらに建築など芸術の成長もまた陶器の発展を大きく促しました。
こうした中、この時代において多くの芸術はサーサーン朝の芸術からインスピレーションを受けて形作られましたが、新たな様式と応用や装飾の変化を伴って提示されていました。例えば、ギャブリー、あるいはシャームルーとして知られる陶器には、彫刻模様が施されており、サーリーと呼ばれる陶器は、様々な色の上薬がかけられており、イスラム以前の芸術から多くの影響を受けていました。しかしながら次第にこの流れはイスラム教徒の芸術家の革新により、変化を遂げ、イスラム様式を伴った陶器の芸術が生み出されることになりました。