イスラエル・ペレス元大統領の死
9月28日、シオニスト政権イスラエルのペレス元大統領が、2週間こん睡状態に陥った後、死亡したと伝えられました。
ペレス元大統領は1923年に、現在のベラルーシで、当時はポーランド領に属していた場所に生まれました。しかし、1934年、家族とともにパレスチナに移住しました。彼が25歳のときに、パレスチナ領土において、シオニスト政権の樹立が宣言されました。
ペレス大統領の前歴を調べてみると、彼がシオニスト政権の樹立と拡張、パレスチナ人の強制退去、ユダヤ人の移住、入植地の建設、1993年のオスロ合意、、1996年のレバノンの民間人虐殺事件「怒りの葡萄作戦」、レバノン南部の難民キャンプへの攻撃、パレスチナ人の第一次、第二次インティファーダ、これらに直接関与していたことがわかります。1947年、ペレス元大統領は、テロ組織である軍事機関ハガナーに入団しました。ハガナーは、ペレスの政策の模範となる、ベングリオン元首相がトップを勤めていました。この組織は後に、シオニスト政権軍の中核を構成するようになり、パレスチナ人の強制退去とユダヤ人の入植に直接的に関与していました。ペレス元大統領は、このハガナーのために武器を購入しました。
1948年5月、シオニスト政権の樹立宣言により、ベングリオンは初代首相となり、ペレスは24歳で海軍司令官に任命されました。ペレスは1952年シオニスト政権の戦争省の総局長に、1959年から1965年には戦争次官に指名されました。1974年、ペレス元大統領は戦争大臣としてラビン政権に入閣し、3年間この責務をつとめました。ペレス元大統領は、1995年に1年間、戦争大臣を担当しました。
パレスチナの占領における、ペレス元大統領の第一の政策は、シオニスト政権の議会、クネセトの議員となることで、これは1959年に果たされています。ペレス元大統領はシオニスト政権の大統領に就任した2007年まで、クネセトの議員だったのです。
ペレス元大統領は、シオニスト政権における全ての政府高官の職につきました。彼は大統領に選出されるまでに、閣僚として移民大臣、運輸・通信大臣、戦争大臣、外務大臣、財務大臣の5つの大臣職に就任しました。また、2回に渡り首相にもなっています。
ペレス元大統領は2007年、9人目のシオニスト政権の大統領に選出され、7年間にわたりこの職にありました。つまり、ペレス元大統領は、15年間大臣を、3年間首相を、7年間大統領を務めたのです。さらにペレス元大統領は、イスラエルの核計画に影響力ある役割を果たしました。彼は、シオニスト政権で首相と大統領を両方つとめた最初の人物でした。ペレス元大統領は、この政治生命の中で、4つの政党に属していました。はじめはイスラエル労働者党に所属しましたが、1965年、ベングリオンとともにこの党を脱退し、新党「ラフィ」を結成しました。その後、わずか2年後の1967年、この2つの党を統合する下地を整え、左派連合政党イスラエル労働党を結成しました。1977年から1992年の間はこの党の党首を務めました。ペレス元大統領はクネセトの選挙が始まる前に、カディマに参入しました。実際、ペレス元大統領は、アリエル・シャロン、ツィピー・リブニとともにこの党を結成したのです。
ペレス元大統領はイスラエルの戦争犯罪の全面的な部分において、直接的、あるいは間接的に関与しています。彼はハガナーのメンバーとして、パレスチナ人を強制退去させ、ユダヤ人の入植を行い、入植地を建設する政策をとることで、占領地の人口構成の変化に直接的に関与しました。
ペレス元大統領の残虐性が頂点に達するのは、1996年4月のことでした。彼は当事、シオニスト政権の首相として、レバノンの抵抗を終結させるため、レバノン攻撃の指示を出しました。この戦争の中で、シオニスト政権軍は、ペレス首相の指示により、レバノン南部の難民キャンプを攻撃し、この中で、250人が死傷しました。ペレス元大統領は、この犯罪により名前がしられるようになりました。
ペレス大統領が就任していた時代、シオニスト政権は、2008年のガザ攻撃と2012年のレバノンの抵抗に対する戦争を実施し、これにより多くの死傷者が出ました。また、2010年、ガザ地区の人々のための人道支援物資を載せたマルマラ号に対する攻撃も、彼が大統領就任時代に行われたシオニスト政権の犯罪のひとつです。
これに加えて、ペレス元大統領は、一部のシオニスト政権の犯罪にも関与しています。彼は1982年、レバノンに対するシオニスト政権の侵攻を支持しており、この中で、2万人以上の民間人が死亡しました。ペレス元大統領はまた、1987年と2000年にも、パレスチナ人の抵抗運動である、第1次、第2次インティファーダを弾圧し、3000人以上が殉教しました。さらに、2006年から始まったガザ封鎖も支持しています。これは彼の大統領就任時代に7年間続けられており、さらに現在も行われています。
ペレス元大統領による明らかな犯罪にもかかわらず、一部の政府関係者やアナリスト、メディアは彼を平和的な人物だとしています。その主な理由とは、ペレス元大統領が、1993年にノルウェー・オスロでパレスチナに関する和平協議を開催したことです。この和平協議は、アラブ諸国によるシオニスト政権の事実上の承認の一種であり、シオニスト政権の犯罪抑止に何の影響も及ぼさなかったばかりか、アラブ諸国がシオニスト政権と外交関係を持つ下地を整えたのです。
実際、オスロで行われた和平協議は、中東の安全の強化のために行われたものではなく、イスラエルの利益を確保するために行われています。なぜなら、この和平協議の前にも、アラブ諸国とイスラエルは20年間、まったく戦争を行っていなかったからです。また、イスラエルとの戦争を率先して行っていたエジプトも1979年にイスラエルとキャンプ・デービッド合意を締結しました。オスロ合意の後も、シオニスト政権はガザ地区やレバノン南部に対する攻撃を続けましたが、イスラエルとの戦争が行われているのを国内における合法性の獲得と見ていたアラブ諸国の支配者は、シオニスト政権の犯罪に沈黙しました。
オスロ合意においては、当時のペレス外相、ラビン首相、パレスチナ解放機構のアラファト議長の3者が大きな役割を果しましたが、このいずれも、オスロ合意によりノーベル平和賞を受賞しています。ラビン首相は1995年、アラファト議長はその9年後の2004年、ペレス外相はその12年後に死亡し、現在、この和平合意の重要人物3人はいずれも生存していません。ペレス元大統領の死は、シオニスト政権の創設者の一人の死とみなされます。
ペレス元大統領の死後に各メディアの注目を集めた重要な問題とは、一部のアラブ諸国の要人の反応、特にパレスチナ自治政府のアッバス議長と、バーレーンのハーリド外相の反応でした。
ハーリド外相はペレス元大統領の死に哀悼の意を表明し、「シモン・ペレスよ安らかに、彼は戦争の男、平和の男、中東で彼のような人物はいない」と記しました。
アッバス議長も、ハーリド外相以上の反応を示し、イスラエルの精神的な父だっただけでなく、パレスチナ国民の指導者でもあったとしました。情報筋はペレス元大統領の葬儀の日、アッバス議長が深い悲しみを示している画像を流しました。シオニスト政権の保守政党リクードの議員も、「ペルシャ湾岸諸国の首脳の一人がペレス前大統領の死を聞いたとき、数分間泣き続けた」と語りました。明らかに、ほかのアラブ諸国の首脳もペレス前大統領の死に哀悼の意を示したものの、その悲しみを明らかにしていません。
アラブ諸国の一部の政府関係者がペレス元大統領と政治的なつながりを持っていたことを示す反応を表明した一方で、中東問題の優れたアナリスト、ロバート・フィスク氏は、イギリスの新聞ガーディアンの記事で、西側諸国の政府関係者が宣伝していたのと違い、ペレス元大統領は「平和の男」ではなかったとしています。フィスク氏はまた、次のように記しています。
「ペレス元大統領の死を聞いたとき、犠牲や戦火などを連想した。私は彼の業績を知っている。この中で子供たちの体はばらばらになり、難民たちは叫び、彼らの体は焼かれた。1996年、そこは、国連の難民キャンプで、彼らの106人の半分は子供が占めており、砲撃を受けて死亡した」
アラブ人の作家も、ソーシャルページ上で、次のように記しました。
「ペレスは戦争犯罪による処罰を受ける前に、死亡した」