3月 04, 2017 17:27 Asia/Tokyo
  • 心の安らぎを生み出す、礼拝の役割

今回は、ストレスを軽減し、心の安らぎを生み出す、礼拝の役割についてお話することにいたしましょう。

今回も、生きるための技術として、WHO・世界保健機関が提唱する、ストレスを緩和する方法についてお話しましょう。ストレスや緊張は、時として自然な形で人々に現れ、また時には慢性的、病的な形で現れることもあります。後者の場合には、治療が必要になります。

ストレスや緊張については、様々な学術的な要因が提示されていますが、やはりその1つが宗教信仰から遠ざかっていることにあるのは、紛れもない事実です。学術的な調査からは、病的なストレスを抱える患者の中でも、通常の治療法に加えて、宗教的な礼拝や祈祷を行っている人は、それ以外の患者よりも高い治癒効果をあげています。

唯一神の絶対的な力に対する信仰心をもって礼拝をする人は、危険やストレスの要素から守られます。また、1日5回の礼拝というこの宗教的な指示を繰り返し実施するとともに、自分の精神に全面的な免疫があると信じることから、最終的に心の安らぎを見出すことになります。これについて、コーラン第7章、アル・アアラーフ章、「高壁」第205節には次のように述べられています・

″心の中で、全宇宙の支配者なる神を畏れ、毎晩静かに神を思い起こすがよい。決して神の存在を忘れてはならない”

イスラム学者の見解では、神が礼拝を義務付けたことはある意味で、人類を完成と救済への道へと誘導する神の厚意だとされています。神の名を唱えながらの礼拝が始まるとき、礼拝をする人の精神は高いレベルへと引き上げられ、その人を偉大な神と結びつけることになります。

礼拝のために立つことで、礼拝をする人の財産や世俗的な表面上の優劣、利己主義といったものは意味を失い、神の目から見た人間としての存在そのものだけがクローズアップされます。礼拝をする人は、人間を創造し、助けを差し伸べる神との関係を築きます。このため、コーラン第20章、ターハー章「ターハー」第14節では、人類に対し、常に神を思い起こすよう求めるとともに、礼拝という行為を心に安らぎを与えるものとみなしており、次のように述べています。

"我こそは、唯一の神であり、崇拝の対象はほかに存在しない。我を崇拝し、我を思い起こすために礼拝するがよい”

 

礼拝という行為は、疲れた心を癒し、創造主である神と、神の僕としての人間の間の恒常的なコミュニケーション手段といえます。人間は、礼拝をすることで、世界の創造主の偉大さや美しさを称えることになります。そして、神と近しくなることで、安らぎで満たされることになります。これについて、コーラン第23章、アル・ムウミヌーン章「信仰者」第1節と2節では、次のように述べられています。

"誠に、信者たちは救われる。彼らは、敬虔なる礼拝者である”  

 

心の安らぎは、結果的に宗教心のある人々の身体の健康につながります。このことから、西側諸国の研究者は人間に安らぎを与える最新の治療法を探し、様々なアイデアを提示しています。彼らによる研究の結果、様々な宗教の中でも、イスラム教徒が持つ安らぎはひときわ輝いており、礼拝が特別な役割を果たしていることを物語っています。この点から、一部の人々はストレスによる精神疾患の患者の治療において、医薬品による治療に加えて、スポーツによる運動療法や筋弛緩法といった方法を追求しています。

最近、オランダの研究者たちは、スポーツセンターでの運動の実施を人々に呼びかけています。こうした運動はイスラム教徒が行う礼拝の動作と完全に一致しており、オランダのスポーツ選手のコーチは、こうした動作が人体の健康に非常に有益であると見なしています。オランダは、公共の場所やスポーツセンターである動画を提示し、この動画示す動作を1日に3回、1回につき10分、心を癒す言葉や詩の朗読とともに行うよう一般に呼びかけています。この動作はまさに、神が礼拝の際にイスラム教徒に義務付けた動作であり、これを実施することは身体と精神の健康の増進に効果があります。

イランの医科大学のアッバースアリー・ヴァーシヤーン教授は、次のように述べています。

「私たちが宗教的な行為に注目しているのは、決してそれがもたらす身体的な効果だけが理由ではない。しかし、ヨーロッパ人の研究者は、礼拝の効力の1つは精神的な効果にもつながる身体的な効果だ、という結論に達している。イスラム以前の複数の宗教を研究してみると、イスラムとの共通点の1つとして、額を地面につける動作がある。これは、イスラムの礼拝の際の動作の一部でもあり、イスラムではサジダと呼ばれる。この動作は、額を地面につけることで血液の循環システムなどが活性化し、発がん性物質が排出されることが、学術的にも証明されている」

ヴァーシヤーン教授は、さらに次のように述べています。

「礼拝における祈祷や、神への思いを口にすること、即ち唯一神との語らいにより、人間は神をより頼みとするようになり、その人の抱えるストレスや緊張は最小限に抑えられるとともに、その人は一人でいるときにも、誰かが自分の傍にいるように感じる。イスラムの礼拝をする人は、腰をかがめる動作をする際に、自分が唯一の偉大な存在の前にいるように感じる。このため、この動作をすることで、その人は礼儀や表敬、服従を示し、偉大なる神と語らい、誠実な言葉を発する。このような言葉は、神以外の者との対話では決して交わされることはない」

おそらくこのことから、完璧な存在としてのイスラムの預言者や崇高なるイマームたちですらも、自らにとって礼拝が必要であると考え、礼拝を高みに至るための手段を見なしていたと思われます。イスラムの預言者ムハンマドは、礼拝を目の光であるとしており、またシーア派初代イマーム・アリーは礼拝により心に艶が出て光り、礼拝の最中に殉教を遂げています。