4月 08, 2017 16:17 Asia/Tokyo
  • 良い話し方

今回は、良い話し方についてお話することにいたしましょう。

いざ、共に語り合おうと思っても、どのように話せばよいでしょうか?既にご存知の通り、生きるための重要な技術の1つは、他人との付き合い方です。私たちは、社会生活において時折、他人から侮辱を伴った乱暴で辛らつな話し方に遭遇し、やむなく何らかの反応を示さなければならないことがあります。特に、様々な行動規範に直面する現代の社会においてはなおさらです。現代の世界では、他人を脅迫、侮辱したり、あざけるような話し方も、通常の事柄とされています。

既にお話したように、生きるための技術とは、人々の精神衛生の向上、人間関係の充実、社会レベルでの健全な行動や健康の増進につながる能力の獲得を意味します。こうした技術は、プラスの行動をとり、自分や社会を社会的、精神的な弊害から守り、自分と社会の精神衛生のレベルを向上させる助けとなります。

相手の人格を尊重して話すことは、その人の精神的な成長や教養を示すものであり、言い換えれば心が健康であることを意味します。他人を侮辱するために、公然と嘲笑的な口調や言葉を用いる人は、意識的に、或いは無意識に他人との関係に支障をきたす原因を作っているとともに、自分のメッセージをうまく伝達できず、また自らのモラル面での人格をゆがめてしまっているのです。

 実際に、他人への侮辱や嘲笑は、人々の人格を脅かす要素の1つとなります。イランの臨床心理学者、ファルシャード・シェイバーニー博士は次のように述べています。

「嘲りとは、人間の意識におけるマイナスの状態であり、その人が自らの心理的な緊張を緩和するために、そうした緊張の原因となる要素を、ある言葉により他人に伝えることである」

イスラムの聖典コーランは、他人への侮辱をある種の圧制と見なしており、その数々の節において、他人への嘲笑やあら捜し、醜い言葉で語りかけを止めるよう呼びかけており、第49章、アル・ホジョラート章、「私室」第11節において次のように述べています。

"おお、信仰する者たちよ、ある民が他の民を嘲笑してはならない。それは、嘲笑された方が、嘲笑した側よりも優れているかもしれないからである。女性たちも、他の女性たちを嘲笑してはならない。嘲笑された女性のほうが、嘲笑した女性よりも優れているかもしれない。そして、互いを中傷してはならない。また、悪いあだ名で呼び合ってはならない”

他人との関係が、人間1人1人の人格やモラルを示すことから、こうした関係には相互の感情を傷つけないよう、また相手の顔を立てるといったマナーの遵守が必要とされます。これについて、イランイスラム革命最高指導者のハーメネイー師は、次のように述べています。

「人間や社会を高い地位に至らせるものは、善良なモラルである。善良なモラルとは、単に人々に気立てよく接するのみならず、人間の心の中でよい性質をはぐくむとともに、自らの精神状態と行動の間のギャップを解消することをも意味する。例え、学術が進歩し、表向きには文明が発達したとしても、その社会が好ましい社会ということにはならない。ある社会において、人々が互いに不穏を感じたり、また互いを妬み、悪意や怨恨を抱いたり、相手自身やその財産を奪おう陰謀をたくらんでいるならば、その社会に安寧は存在しない。しかし、逆に人々の心がモラル面での美徳により充実し、互いに親切に振る舞い、折り合い、寛大な心で赦す精神を持ち、富や財産への欲望を持たず、また互いの進歩発展を妨害せず、忍耐強くあるならば、その社会は物質的には大きく進歩しなくとも、人々はその社会において平穏や幸せを感じるものである。我々は、まさにこれを必要としており、自らの心において日々イスラム的な精神を育む必要がある」

最高指導者ノハーメネイー師はまた、他人との付き合いや話し方のマナーについても見解を表明しています。

 

 人付き合いのよい側面や技をはぐくむため、コーランは信者たちに対し、見解の狭い人々に遭遇した際には、彼らの失礼な言動を大目に見ることに加えて、彼らに好ましく美しい言葉で語りかけるよう求めています。これについて、コーラン第25章、アル・フルガーン章「識別」、第63節には次のように述べられています。

"また、慈愛あまねき方の僕たちとは、無知な人々が話しかけても、平安がありますように、と挨拶して言う人々である”

一部の人々は、他人の価値を失わせるために、嘲笑的な要素を利用し、その場の雰囲気がしらけないよう、その場に居合わせた人々を歓迎するため、彼らの威信や面目にかこつけます。即ち、歩き方や話し方、皮肉などによって話の相手や自分の友人を納得させるのです。こうした人々は、このような手法によって、自己愛や復讐心を募らせていくのです。

しかし、神の本当の僕たちは、言葉による他人とのコミュニケーションにおいて、知性的な側面を守ります。彼らは、無知な人々と接する際には、そうした人々が発する心無い言葉に傷つくことなく、彼らの健康や幸せを祈るのです。これについて、コーラン第13章、ラアド章「雷電」、第22節には次のように述べられています。

”そして、彼らは善によって悪を退ける”

良い言葉が人間関係にもたらす影響に注目し、コーランのほかの節では、敵に対してもよい言葉で語りかけるよう述べられており、他人から醜い言葉を浴びせられても、それに対し美しい言葉で応えることが求められています。コーラン第41章、フォッスィラト章「解明」、第34節では次のように述べられています。

”善と悪は同じではない。他人が悪をしかけても、もっとよいもので悪を追い払いなさい。そうすれば、あなたとその人の間に敵意が存在していても、親しい友のようになる”

 

嘲笑という行為は、全ての人々にとってマイナス的な要素です。特に、より人望が厚く権威があり、神の御前においてより高く位置づけられている人であれば、その人物に対する嘲笑はより大きな弊害をもたらします。言うまでもなく、社会を構成する全ての人々は、イスラムにそった利益を確保するために活かされるべき立場を有しています。そうした立場が嘲笑された場合には、その人が社会に利益をもたらすべき事柄が正しく実行されなくなるのです。

明らかに、このようなことは社会の弊害となるのみならず、個々人の役割にも悪影響を及ぼし、相手の復讐心を煽ることになります。一方、他人への侮辱や嘲笑は、侮辱された相手のみならず、侮辱した本人にも悪影響をもたらします。それは、このような行為が習癖となれば、人々からの信頼を失い、さらには神のことも忘れてしまうからです。コーランは、このような行い卑劣な行いとして、それを差し控えるよう警告しています。