コーラン第29章アンキャブート章蜘蛛(3)
今回は、コーラン第29章アンキャブート章蜘蛛の後半部分を見ていきましょう。そこでは、礼拝の重要性とその効果について述べられています。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アンキャブート章では、コーランの偉大さ、イスラムの預言者ムハンマドの正しさ、そして礼拝や善行といった問題について述べられています。アンキャブート章では、包括的な方針が描かれており、イスラムの預言者に対し、コーランを朗誦し、礼拝を行うよう求めています。
アンキャブート章第45節には次のようにあります。
「天啓の書から汝に下された啓示を朗誦し、礼拝を行いなさい。まことに礼拝は、[人間を]醜さや悪から遠ざける。もちろん、神を思い起こすことの方がより大きい。神はあなた方が行うことを知っておられる」
礼拝は、人間に最も力強い抑止力、つまり、神と復活への信心を思い起こさせるため、醜い行いや相応しくない行いを防ぐ強力な効果があります。礼拝に立つ人間は、「神は偉大なり」と口にします。つまり神を何よりも優れたものと見なし、神の恩恵を思い起こし、神を称賛し、神の慈悲を讃えます。人間は礼拝の際、報奨の日のことを考え、神への服従を告白し、神に助けを求めます。そして正しい道を神に求め、神の怒りを買い、迷いに陥った人々の道に入らないよう、神に助けを求めるのです。
明らかに、このような人間の心には、清らかさと真理への動きが生まれます。その結果、その全身に精神性の波が生まれます。その波は、あらゆる罪に対する力強い障壁となります。また、礼拝は、あらゆる罪から免れ、神の赦しを受けるための手段です。礼拝のまた別の効果は、人間に、過去を改め、罪の赦しを求めるよう呼びかけることです。伝承には次のようにあります。預言者ムハンマドが教友たちに、「もしあなたたちのうちの誰かの家の前を、清らかな水の小川が流れ、毎日5回、そこで自分を洗ったら、その人の体には穢れが残るだろうか」と尋ねました。彼らはいいえ、と答えました。預言者は言いました。「礼拝は、この水と同じである。人間が礼拝を行うたびに、2回の礼拝の間に行う罪が消し去られる。このようにして、罪によって人間の心に留まる穢れが洗われるのだ」
礼拝の特徴の一つは、人間の信仰心を強化し、敬虔さの芽を心に育むことです。そのため、罪を犯す人々の状態がイスラムの預言者やイマームたちのもとで述べられたとき、彼らはこう語りました。「心配することはない。礼拝が彼らを改める」 礼拝は、夜と昼の決められた自国に5回行われるため、人間に定期的に警告を与え、創造の目的を思い起こさせます。
礼拝は、人間の精神性を完成させ、美徳を育む手段です。なぜなら、礼拝は、人間を物質的に制限された世界、囲まれた世界から解き放ち、天へといざない、天使たちと声を合わせるからです。礼拝を行う人間は、いかなる仲介も必要とせず、神の御前に立ち、神と語り合います。アンキャブート章の第45節はこのように続いています。
「神の名を唱えることは、それよりも優れている」
礼拝やそれ以外のすべての崇拝行為の精神は、原則的に、神の名を唱えることです。礼拝の言葉、礼拝の行為、礼拝の準備、これらは皆、実際、人間に神のことを思い起こさせるものです。
アンキャブート章の第46節は、啓典の民との協力、議論、対話の方法を提起し、次のように語っています。
「啓典の民と、最高の方法以外で議論してはならない。ただし、彼らのうちの圧制者は別である」
イスラムでは、他の民との平和的で健全かつ良好な関係が強調されています。ここで、この節は、啓典の民と接する際には、論理を伴った友好的で礼儀正しい言葉を使うようにとしています。また彼らと対立した際には、争いや罵り、暴力や侮辱を避けなければなりません。それは、イスラムでは、他の思想、文化、共同体との論理的で明白な話し合いや意見交換が、認められる原則とされているためです。
とはいえ、議論を交わしている際に、相手がイスラム教徒の平和的な行動を、彼らの弱さや無力さと捉えたり、高慢さから、そのような人間的な接し方を見て、さらに大胆な行動に出る可能性があります。そのためこの節は、彼らのうちの圧制者を、そのような友好的で平和的な接し方の例外としています。この節は終わりに、良い議論の明らかな例を挙げ、このように語っています。
「[彼らに]言え、私たちは、神から私たちとあなた方に下されたすべてのことを信じます。私たちとあなた方の神は一つであり、私たちは彼に従います」
アンキャブート章の第48節は、イスラムの預言者ムハンマドの導きが正しいことの明らかな徴、つまり預言者が読み書きができなかったことに触れています。
「汝は決して、これ以前に書物を読んだことがなく、自分の手で何かを書いたこともない。汝の言葉を否定しようとする人々は、疑いを抱くべきではない。そして彼がもたらしたものを、以前の書物を読み、それを映した結果だなどと言うべきではない」
次の節は、さらに続けて次のように語っています。
「我々が天の書を汝に下し、常に彼らに読ませたことで、彼らには十分ではないのか?まことにこの書物の中には、信仰を寄せる人々のための慈悲と確かな忠告がある」
アンキャブート章の最後の節にはこのようにあります。
「我々の道において努力し、戦う人々は、間違いなく、我々が導くだろう。神は善を行う人々と共におられる」
神の道を歩むことは、様々な困難を伴い、過ちを犯す可能性もありますが、この節は人間を安心させ、もし正しい道を歩めば、神の導きに授かると述べています。とはいえ、神の導きに達するためには、努力することが必要であり、その第一歩はその人自身が歩みださなければなりません。時に、正しい純粋な一歩が、永遠の導きと救いにつながることがあります。明らかに、人間が道を注意深く選択し、神のために努力すれば、その道の途中で、神の導きに授かることができるのです。