寄付や施し
今回は、寄付や施しについてお話することにいたしましょう。
ある日、ある男性が危篤に陥りました。その人は、自分の息子を枕元に呼び寄せ、次のように遺言しました。
「私が死んだら、あの土地とこの庭園を恵まれない人々や孤児たちに寄付し、来世に向かう私の暗い道が明るくなるようにして欲しい」
しかし、父親の病状は回復しました。ある夜のこと、彼は例の庭園に出かけようとして自宅を出発し、息子に灯りを持って付いてくるよう求めました。息子は父親の後について歩いたため、彼の持つ灯りは父親にとってそれほど効果はありませんでした。そこで、父親は息子に向かってこう告げました。
「お前が私の後ろから歩いてきたら、私にはほとんど見えず、お前の歩く道だけを照らすことになる」
息子は次のように述べました。
「お父さん、あなたがこの世を去った後の施しは、まさにこの灯りのようなもので、私にとっては有益ですが、あなたにとってはほとんど利益はありません。あなたはもはや自分にとって利益のないものを施したのであって、それを自分で使うことはできません。善行とは、自分が富や財産を使うことのできる時、そして自分が楽しい思いをしているときに、神の道においてそれをあえて手放し、他人に施すことです」
コーラン第2章、アル・バガラ章「雌牛」、第254節では、この点について次のように述べられています。
”信仰心に目覚めた人々よ、我らがあなた方に授けた糧の中から、取引や友情、取り成しもない日が来る前に施すがよい”
宗教的な行為は、それがどのような形であれ精神的な健康の要素の1つであり、これを行うことは生きるための技術に含まれます。複数の研究からは、宗教的な行動が精神面の健康の増進を助けることが分かっています。
今日、精神医学的な研究においても、一部の事柄を実施することにより、人間の心の内面が強化され、心からの満足感や喜び、そして自信も得られるという結果が出ています。自分の持っているものを他人に与える行いは、自分が心からそうしたいと考えて行ったときには、施した人のみならず、施しを受けた人の精神にもよい効果をもたらします。さらに、施しにより、社会も健全になります。助けた側は、その行いにより自信や喜びによい効果を与えたことにより、また助けられた側や社会にも、より大きな信頼や共感が広がります。
そもそも、他人のためになることは、私たちの精神の健康増進を促し、私たちに必要な愛情を確保する源の1つです。他人を支援する行動により、他人のために祈るとき、私たちは愛情を満たすための大きな一歩を踏み出したことになります。これを否定すると、うつ病に陥ったり、自分の望むものを失うことになります。
さて、私たちはどれほど施しの精神を持っているでしょうか。また、我々はこれまでに、空腹を我慢して自分の食事を誰かに分け与えたことがあるでしょうか。或いは、自分が必要としているものの中から、自分よりもっと困難な状況におかれている人々に、物的に支援することができたでしょうか?
他人に同情することで、他人の身になって考え、彼らの視点から問題をとらえて、これを解決することができます。施しにおいて、人は自分の楽しみを他人に分け与えます。物質的な施しは、利己主義を抑えるプラスの側面であり、健康増進へのきっかけとなります。
イスラムの預言者の娘で、シーア派初代イマーム・アリーの妻だったファーティマとその子どもたちは、3日連続して自分たちの食物を貧しい人々に施しました。コーラン第76章、アル・インサーン章「人間」、第8節と9節では、他に例のないこの素晴らしい行いを賞賛し、全ての人々をこの点に注目させるとともに、次のように述べています。
”また、彼らは神のために、貧しき人々や孤児、そして捕虜に食物を与える。そして、彼らは次のように言う。「私たちは、ただ神の喜びを願ってあなた方に食物を与えるのであり、あなた方に報酬も感謝も求めない」”
施しは、神から提案されている宗教行為の1つです。この行為は、納税や寄付、そして恵まれない人々に対する世話といったボランティア、孤児を大切にするといった形で実行できます。コーランの教えでは、こうした物質面での施しを奨励する政策が考慮されており、どのようなものが施されても、幸運につながります。これについて、コーラン第3章、アール・イムラーン章、「イムラーン家」第92節では次のように述べられています。
”あなた方は、自分が大切にしているものを施すまでは、善に到達しないであろう。神は、あなた方が施すもの全てを必ずご存知であられる”
神の道においての施しは、河川からバケツで水をくみ出してもすぐにまた水が満たされるようなものだとされています。これについて、コーラン第34章、サバア章「サバア」第39節には次のように述べられています。
”言うがよい。「誠に、我が主はその僕たちの中から、お望みの人の糧を増やされ、また狭められる。神は、あなた方が神の道のために施すものに対し、代わりのものを与えられる。神は最も優れた糧を与える方であられる”
コーランでは、人格の尊重が極めて大切にされています。施しは、それを必要とする人々の人格や社会的な面目を傷つけるものであってはなりません。このため、宗教の教えにおいては、施しをする人はすでに自分が大きな恩恵にあずかっていることを神に感謝し、恵まれない人々の存在を、精神性を高めるよい機会とみなすべきなのです。人間としての尊厳に関する法律によれば、任意の寄付は隠れた形で行われることが奨励されています。この教えでは、宗教的な行為の実施や社会的な健康の促進、人格の維持に努めるよう奨励されています。
物質的な施しには、特別な条件がつけられています。施しを継続する基本原則の1つは、節度を守ることです。コーランでは、自分の周りの人にまったく注目しない、了見の狭い人になってはならないとする一方で、自分たちが人に助けてもらわなければならないほどに与えすぎてもいけない、とされています。コーラン第17章、アル・イスラー章「夜の旅」第29節は次のように述べています。
”あなたの手を、自分の首に縛り付けてはならない。また、非難され、疲れ果てるほど手を開いてはならない”
また、さらに重要なポイントとして、こうした施しは相手側に恩を着せることなく行われるべきだとされています。他人にひけらかしたり、媚を売ったりするための施しは価値がなく、それはその人の個人的な欲求を満たすだけです。これについて、コーラン第2章、アル・バガラ章「雌牛」、264節では次のように述べられています。
”信仰心に目覚めた人々よ、あなた方は恩に着せて自分の施しを無駄にしてはならない”