イランの文化における英雄叙事詩「王書」
今回は、イランの文化における英雄叙事詩「王書」の位置づけについて考えることにいたしましょう。
古代のイラン人は、価値ある壮大な文化と文学を生み出した人々であり、今日私たちはその一部を受け継いでいます。また、それらの文化や文学の消失してしまった部分でさえも、ものの名称などの形で今なお残っています。そうした例として挙げられるのは、イランの英雄叙事詩詩人フェルドウスィーの大傑作で、シャーナーメと呼ばれる「王書」です。この著作全体を深く掘り下げ、その構造面から研究すると、この作品の至る所にちりばめられている語彙から、古代のイラン人の世界観や創造世界に対する認識が見て取れます。
イランが誇る大詩人フェルドウスィーは934年、現在のイラン北東部ホラーサーン地方にある町トゥースに生まれました。彼の父親は、地元の大地主の1人で、注目に値する地位や財産を持っていました。若き日のフェルドウスィーは、父親の地代収入があったことから、何不自由ない暮らしをしていましたが、次第にそれらの収入を失い、貧困に苦しむようになりました。
フェルドウスィーは青年時代から古い物語や逸話に関心を持ち、過去のイランに関する情報や歴史的な資料の収集を目指すようになりました。こうした古代の物語への関心から、彼はイラン文学の大傑作の1つ「王書」の執筆を思い立ちます。彼は長い年月にわたってこうした書物を探索し、この作品の元になった物語の原本を手に入れてからは、この作品の執筆のために、実に30年近く自らの人生のうちの黄金時代を費やしています。
世界的な名作はいずれも、人類としての努力の一部だといえます。「王書」は、人間の間で繰り広げられる数々の戦争、生と死、恋愛、幸福と苦難の日々、偉大な性質、伝説や歴史などの全てを最も優美な言葉で集大成しています。このため、仮に現代人でさえも自らの生活を、世界観や教育という枠組みで1冊の本にまとめたいと考えたとき、最も包括的な手引書としてこの「王書」を選んだと思われます。
フェルドウスィーは、イランを語る上でイランの全土に注目しており、特定の民族や部族のみを賞賛することなく、全ての民族を素晴らしい存在であるとしています。彼は、イラン北部マーザンダラーン州、中部イスファハーン州、北東部ホラーサーン地方などをはじめとするイランの州や都市の多くについて説明しており、広大なイランの全ての地域を賞賛しています。
フェルドウスィーがこの大傑作を執筆した主な目的は、イランの様々な民族や部族同士の団結であり、それによってこれらの諸民族の国民的な団結を確実なものにし、1つの有力な中央政権の成立を実現させることだと言えます。イラン人は、歴史のあらゆる時代を通して威風堂々と生涯を送り、卑劣な行為や外国人への服従に甘んじることは決してなく、ひとかどの人間として歴史に汚点を残すことはありませんでした。このようなモラル面での偉大さを生み出す上での、イラン人の国民的な英雄伝でもある「王書」の影響は決して否定できないものであり、イランの失われた独立性の回復やナショナリズムにおいて高く位置づけられています。
フェルドウスィーは、イランの過去の歴史や文化、文明に精通し、イランとその人々の運命に執着していたことから、その自由な精神と大胆さにより、先人より伝えられた物語を伝承する立場におかれることとなりました。彼は、イラン人のアイデンティティを文明や歴史の奥深い部分そして、イラン人の行動から発掘し、他の文化圏との接触について批評しています。
フェルドウスィーは、イランを単に地理的な側面から捉えることなく、これを1つの文化圏や精神性、ひいては1つの文明や伝統とみなしています。このため、彼はまず、自らの著作をこのイラン文化のシンボルとしています。また、イランの人々の暮らしや歴史、名誉、愛着の沸く伝統、そして彼らのモラルや行動面での長所を再現しています。
フェルドウスィーは、その偉大な英雄叙事詩の創作により、イランとイスラムという2つの文化を可能な限り最高の形で融合させました。「王書」は、サーマーン朝およびガズナ朝時代から残る、唯一の最も偉大な詩集であるのみならず、偉大なるペルシャ語文献であるとともに、古代イランの文化や文明の繁栄を具現するペルシャ語文学やペルシャ語の言葉の宝縛でもあります。
「王書」は、イラン民族の国民的な伝統の真の番人であり、鑑定書のようなものです。この作品は、およそ6万の対句で構成されており、伝説時代、英雄時代、そして歴史時代の3つに分けられています。この著作は、善と悪の戦いを物語っており、英雄たちは創造世界におけるこの永久的な戦いの戦士なのです。
「王書」において徹底されているフェルドウスィーの視点や思想は、常に暴虐や悪人に対するよき防衛者という概念です。この著作に登場する英雄たちは、常に死との対決から逃れようとしていますが、これは死という現実から顔を背けたりすることではなく、英雄たちは大きな危険と向き合い、衝突し、実際には生きるために死を遠ざけようとしているのです。
「王書」の物語ではまた、現世のはかなさも詠われており、読者に対し目覚めや日々の出来事から教訓を得るよう教示しています。しかし、その一方で、フェルドウスィーは恋愛というテーマについては、その独自の美しさと華やかさ、かつ簡便な表現により朗吟しています。
フェルドウスィーの詩においては、イメージ化が特別な位置づけを有しています。フェルドウスィーは、読者の目の前で物語における出来事を具現化し、読者を自分とともにその中にたくみに引き入れているのです。それは、あたかも読者が映画館のスクリーンに映し出された物語の映像を見ているようなものです。
イランは、まさにフェルドウスィーの名前によって生きており、フェルドウスィーは不朽不滅な賢者たちの生誕地であるイランを蘇らせたと言えるでしょう。
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