3月 16, 2016 23:41 Asia/Tokyo
  • アケメネス朝時代の服飾

紀元前6世紀から紀元前4世紀にかけてのアケメネス朝時代の服飾について説明します。

服飾の歴史は、実際には文明の歴史の一部であり、古代からある特定の時代までの服装の変遷が検討されます。服装の種類の変化とともに、ある社会の文化的、社会的な動向も変化します。いずれの社会においても、歴史のこうした分野の研究により当時の社会の人々に関する秘密が明らかになります。今夜は、紀元前6世紀から紀元前4世紀ごろのイランの人々の服装の特徴の一部についてお話することにいたしましょう。

イランの古代王朝アケメネス朝ペルシャは、紀元前550年に成立し、その220年後にマケドニアのアレクサンダー大王によりダリウーシュ3世が殺害され、タフテジャムシードの都が征服されたことにより滅亡しました。タフテジャムシードにあるアケメネス朝時代の石版のレリーフに注目すると、当時の芸術、文化的、社会的な状況が浮かび上がってきます。このレリーフには、メディア王国やエラム王国の芸術の影響が明白に見て取れます。また、その影響は他の何よりも服飾に顕著に見られます。

最も原始的で単純なパールス人の正式な服装は、イランに入ったばかりの頃はおそらく1枚の長方形の布地で、その中央に頭を通すための切れ目があったと考えられています。メディア人は、この服装を特に雪が降る地域において長靴とともに着用していました。アルベール・ラシネは、次のように述べています。「服飾の主な要素は、前が閉まった袖なし、あるいは袖のついたチュニックに、1本ないしは2本のベルト、そして長袖のコートに、前あきで袖なしあるいは袖のついたマントである」 パールス人がイランの為政者となってからは、こうした簡素なスタイルが変化します。服飾スタイルとして完成したパールス人の服飾モデルは、タフテジャムシードやパーサールガードの石版のレリーフや、イラン南西部シューシュで出土した上薬のかかった化粧タイル、そしてイラン西部ビーソトゥーンの岩のレリーフにも見られます。

アケメネス朝の初代国王キュロスは、権力の座に就いた後、パールス人の服装を、乗馬や戦争の際に必要とされる動きやすい服装に変えようと思い立ちます。このため、パールス人の服装は当初、スカートとジャケットのツーピースで、その後は次第に彼らの間に、チュニックとズボンというメディア人の服装が広まり、さらにこれがパールス人の儀式の際の服装となりました。その後、こうした服装は正式な儀式の際のみに着用されるようになり、上流階級の人々は紫色(パープル)系統の色彩や、金銀の装飾品とともにこの正装を利用していました。シューシュで発見された化粧タイルに描かれている常駐兵の服装は、こうした服装の細やかなデザインを物語る貴重な実例であり、この化粧タイルは現在、イラン考古学博物館とフランス・パリのルーブル美術館に収蔵されています。

イランの古い習慣では、3つの社会階層が服装の色調系統により識別されていました。軍事関係者や戦士は赤、ゾロアスター教の司祭は白、村落に住む人々は青といった色調の服装を身に着けていたのです。王族の人々の服装については、アケメネス朝時代の建物の一部にその色調系統を突き止めることができます。5世紀はじめのものとされるある絵画には、正式な宴の席に完全なイラン式の服装をした1人の王侯貴族が描かれ、さらにある石版ノレリーフにはこれもパールス人の服装を身につけた男性の姿が彫刻されています。

イラン芸術史の学者ヤフヤー・ザカーは、「パールス人の服飾とそれにおける変化」と題する論文において、次のように述べています。「これまで、ほかの人々の間でこのような衣服が見られなかった一方で、エラム人の服装は明るいもので、このような服装は気候条件や生活様式、特別な儀礼習慣、国民的、宗教的な趣向、パールス人たちの信条に沿って生まれてきたのであり、このような驚くべき服装をもたらしたのは、他でもない、彼ら自身だった」

もっとも、タフテジャムシードの遺跡に見られる石のレリーフには、どうやら、衣服の形式がツーピースであったことの証拠は存在しないようですが、それを証明する印章の浮き彫りがあります。そのため、おそらく、パールス人が狩猟の際には一重、もしくは2枚重ねのスカートを利用していたと言えるでしょう。しかし、印章に彫られている浮き彫りから、その後、キュロス大王によってチュニックとズボンという組み合わせにパールス人の服装が変化したことが分かります。パーサールガードに見られるキュロス大王の服装の彫刻は、彼が征服した国の人々の習慣を守るために、彼らの服装の一部を守っていたことを示しています。もっとも、その服の布地の図柄には大きな変化が生じていました。

アケメネス朝時代の男性の服装は、大きく5つに分けられます。それは、宮廷内での服装、騎馬隊の服装、ギリシャ様式、インド様式、平原に住む人々の服装です。パールス人の間にしだいに定着していった服装は、それを着用する人の個人的な身分により異なっていました。パールス人の伝統的な服装の色調も、季節やそれぞれの社会階級によって異なっていました。

パールス人の服装は、実用的という特徴に加えて、美しく着飾る役割も果たしており、それを着用する人の人物的なイメージも提示するものでした。このため、パールス人は布地の選択を非常に重視していたのです。布地の材質は絹や木綿、ウールなどで、色調は橙色、白、黄色、茶色、スカイブルー、紫などでした。薄紫色には特別な価値があり、宮廷の正式な服装の色とされていたのです。薄紫色の布地は、高品質で知られていたことから非常に高価なものとされ、国王たちがこれに金の糸で装飾用の縫い取りを施していました。布地も実に様々で鮮やかであり、縁取り、あるいは縁なしの状態で使用されていました。複数の資料からは、全体的にアケメネス朝時代の人々の服装が、決まりきったものでなく、ゆったりとしていて美しい上に、縫い方がしっかりしていたことが分かっています。

アケメネス朝時代の人々の服装のもう1つの特徴として、髪飾りや髪留め、靴や装飾品が使用されていたことが挙げられます。その前のメディア人の間では、貴族階級用と使用人用に2種類の帽子が使われていたのみでした。これに対し、パールス人の間では6種類の帽子が普及していました。王侯貴族が頭に被っていたのは、円筒形の帽子でした。タフテジャムシードの遺跡のダリウーシュ大王の宮殿の西側の階段に彫られているレリーフには、こうした帽子はもちろん、アケメネス朝時代の王侯貴族たちの冠が見られます。例えば、パーサールガードの彫刻に刻まれているキュロス大王の冠は、角のある独特なものです。

パールス人の使用していたそのほかの帽子や髪留めとしては、兵士たちのヘッドバンド、一般庶民が使用していた木綿製の緩い被り物、あご紐のついたフェルトの帽子、後ろに垂れ下がる紐のついた帽子などが挙げられます。

パールス人の履いていた履物は、黄色や小豆色、薄紫色の皮を縫って作られたものでした。パールス人に関する浮き彫りに注目すると、4種類の靴が存在していたことが分かります。そのうち、最も単純なデザインのものは、メディア人の靴からヒントを得たものです。この種の靴は2箇所、即ち足の裏と靴の正面が縦に縫われていました。階級の高い人々が履いていた靴は、数百年をかけてそれらを実につけるものの一部に変えた職人の技能の高さを示しています。靴はもはや、単に皮を足の大きさに合わせて裁断し、それから縫った単純なものではなく、さまざまな部分を組み合わせて作られるようになりました。

パーサールガードに残されているレリーフの1つにおいては、キュロス大王がこの種の靴をはいています。彼は、靴の中にヒールが隠されたメディア人の靴がお気に入りでした。それは、そうした靴は、外から見えないかかとの部分が高くなっており、これを履くことで人々に背が高く、また格好のよい人に見せることが出来たためです。