4月 28, 2018 20:29 Asia/Tokyo
  • コーラン
    コーラン

今回は、魂の健康の主な指標として、神に近づくことの意味について考えることにいたしましょう。

前回は、人間は誰でも、神に従うという本質、そして健康な魂をもって生まれてきていることについてお話しました。人間の本質は、人として完全の極致に達するための手段であり、完全の極致に達することとは、崇高なる神に近づくことに他なりません。

人間は、本質的にどこまでも完全の極致を求めており、また神は尽きる事のない完全の極致の源泉といえます。このため、神に近づく事や神に近いと感じることは、言葉では表現しがたい喜びにつながります。こうした喜びは、そのほかの快楽や成功とは全く比べ物になりません。

現代の世界においては、いずれの宗教や宗派、思想も、自らの見解に照らして人間としての最終的な完成という概念を定義づけています。一部の人々は、物質的な快楽に、より多く浸ることが、人間の完成した状態だと考えています。こうした人々の目的は、よい感覚やプラスのエネルギー、表面的な安らぎや喜びを持つこと、そして病気の予防などです。

イスラムの考え方では、人間としての完全の極致は、神に近づくことだとされています。イスラムの聖典コーランの中でも、この不変の真理が様々な表現により指摘されています。

コーランでは、他人に先駆けて善良な行為をする人を、神に近い存在だとし、次のように述べています。

“そして、先頭に立って善行に努める者は、誰よりも先に神の慈悲と慈愛を受ける”

また、コーラン第53章、アン・ナジュム章「星」、第8節と9節には、神の側近にあるという最高の位にある人物の、世界最高の見本として、イスラムの預言者ムハンマドを挙げ、次のように述べています。

“彼は、それから降りてきて近づいた。およそ弓2つ分、いや、それよりも近い距離であったか”

 

 

また、いくつかの伝承においても、預言者たちが常に、神により近づくことを求めており、神のもとに到達することこそ、自らにとって最も好ましいこととみなしていたとされています。たとえば、シーア派初代イマーム・アリーは、シーア派教徒にとっての精神修養とされる神への祈祷において、次のように述べています。

“神よ。あなたの僕たちの中でも、私を誰よりもあなたに近づけ、あなたのもとで誰よりも多くあなたの恩恵を受けられるように取り計らい給え”

シーア派4代目イマーム・サッジャードも、最大の要求として、神のに近づく事を挙げており、次のように述べています。

“そして、あなたに限りなく近づく事が、私の願いである”

イマーム・サッジャードはまた、神に近づくことは、悲しみを吹き払う事であるとし、次のように述べています。

“神よ。あなたに近づく事でしか、私の胸の痛みが癒されることはなく、私の胸騒ぎが収まるのは、あなたにまみえることによってのみである。そして、私の渇望を満たすのは、あなたにまみえることのみであり、あなたに近づくことなしに、私は安らぎを得る事はない。あなたに近づくこと以外に、私の悲しみを癒すものはない”

 

今ここでお話している「神に近づくこと」の意味は、時間的、空間的なものではなく、また神に似ることでもありません。それは、神が時間や場所といった枠組みに収まる物質的な存在ではなく、物理的な場所に縛られない、清らかな存在だからです。

もっとも、神に近づくという概念は時として、人間をはじめとする世界の存在物が神に依拠し、すべての存在物が永遠に神のもとにあることを意味する場合もあります。これについて、コーラン第50章、ガーフ章「ガーフ」、第16節には次のようにあります。

“我らは、人間の頚動脈よりも人間に近い”

しかし、ここでいう接近とは、人間が信仰心や敬虔さによるふさわしい行いの結果、向上、成長し、より高い地位に到達することを指します。このため、神への接近という概念が真に意味するものは、魂や精神が神に近づく事なのです。

 

 

ここで考えるべきことは、人間は自らの意思により、飲食を含めたすべての行動を、人間を神に近づける宗教的な行為として実践できるということです。このようにして、人間は現世に生きている全ての時間を、一瞬たりとももらさずに活用し、人生の全ての時間を進歩向上のために生かすことができるのです。

自分の考えや意思、行動の全てに宗教的な方向付けを持たせることのできる人は、成長することができ、その人の魂の健康も保障されます。それは、魂の向上、ひいては神に近づくことのためには、全ての可能性をバランスよく連携させて活用しなければならないからです。

もっとも、ここで言う神への接近とは、ある意味で階段やはしごを上るようなものです。人間は、階段を1段でも多く上がればあがるほど、より多くの注意や配慮が必要です。それは、脇にそれたり、落下した場合には、そのときにいる場所が高ければ高いほど、より甚大な被害を受けるからです。さらに重要なのは、こうした階段やはしごを上っている際に、途中でためらい、立ち止まる中間点のようなものはなく、ひたすら上り続けなければならないことです。自己改革という階段を上る人は、途中で止まることなく、さらなる高みを目指して上り続けてはじめて、神に近づくことができるのです。

次回もどうぞ、お楽しみに。

 

 

 

 

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