12月 07, 2021 03:38 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン・第一章、アル・ファーテハ・ハムド
    聖典コーラン・第一章、アル・ファーテハ・ハムド

コーランの最初の章、第一章は、アル・ファーテハ、あるいはハムドと呼ばれ、その節は、創造主である神と被創造物の関係について述べ、それを、偉大なる預言者ムハンマドへの大きな恩恵だとしています。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アル・ファーティハ章、第1節~7節

「慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において。世界の創造主である神に称賛あれ。慈悲深く寛容な方。彼は、最後の審判の主である。[神よ、]私たちはあなたのみを崇拝し、あなたのみに助けを求める。私たちを正しい道へと導きたまえ。あなたの怒りを受けたり、道に迷った人たちではなく、あなたが恩恵を与えた人々の道に」

 

 

コーラン第1章ハムド章は、ファーティハとも呼ばれています。ファーティハとは、「始めるもの」を意味します。コーランはこの章で始るため、書物を始める、という意味のファーテハトルケターブとも名づけられました。とはいえ、この章が神から一番初めに下されたわけではありません。多くのコーラン解釈者は、預言者ムハンマドがハラーの洞窟にいたときに、最初に下ったのは、第96章アル・アラグ章凝血の前半の節だとしています。しかし、コーランでは、ファーティハ・開端章が、第1章とされています。この章には複数の名前がつけられていますが、中でも最もよく知られているのは、「ハムド」です。この章では神が称賛されています。ハムドとは、我々に恩恵を与えてくださった偉大な創造主、神に崇拝と称賛を捧げること、を意味します。

 

 

ハムド章には、「感謝」、あるいは「光り」、という名前もつけられています。この章は第7節まであり、「二通りの7」という意味の「サブオルマサーニー」という名前でも呼ばれています。一部のコーラン解釈者は、このような名前の由来として、ハムド章は7節あり、一度はメッカで、もう一度はメディナでと、2回、下されたことを挙げています。また一部の解釈者は、「それぞれの礼拝の際に、ハムド章が二回、読み上げられること」を挙げています。

 

ハムド章は、「書物の母」を意味する「オンモルケターブ」とも呼ばれています。なぜなら、その内容が、コーラン全体の内容を集大成したかのように包括的であるためです。一部は、唯一神の信仰と至高なる神の性質、また他の一部は復活と最後の審判、また一部は、敬虔な人間と不信心者の間の距離である迷いと導きの問題について触れています。ハムド章の節の中では、世界の唯一の創造主である神のみが、称賛と服従に値し、人生の様々な出来事、苦楽の中で、神のみが人間を助けることができると強調されています。

 

シーア派6代目イマーム、サーデグは、コーラン第1章ハムド章について、次のように語っています。

「この章では、まず神が称賛され、半ばでは神への信仰心について述べられ、最後は神が崇拝されている」

 

 

ハムド章は、文章の調子、リズムの点で、コーランの他の章とは異なっています。なぜならこの章で、神は僕に対し、神に語りかける方法、祈りを捧げる方法を教えており、その節は僕の言葉であるからです。この章は、神への称賛によって始まり、神と最後の審判への信仰を表し、最後に、僕の祈り、願いによって終わっています。伝承において、至高なる神は次のように語っています。「ファーテハトルケターブ章を、自分と僕の間で分けた。そこで、この章の半分は私のもの、もう半分は僕のものである。その中で僕から求められたものを与えよう」

 

ハムド章は、コーランの中で特別な位置づけを有しています。この章は、全てのイスラム教徒が礼拝の中で読まなければならない唯一の章です。イスラム教徒は、一度の礼拝の中で2回、つまり、義務とされる一日5回の礼拝の中で、毎日、この章を10回読み上げます。それは、ハムド章が高い位置づけにあることを示しています。ハムド章は、アッラーの名前と、慈悲深く、慈愛あまねき、という2つの言葉で始まっています。第3節でも、再び、「ラフマン・慈悲深い」と「ラヒーム・慈愛あまねく」という言葉が繰り返されています。つまり、称賛に値する神は、創造の基盤を、慈悲と慈愛に据えています。

 

慈悲深い、を表すラフマンとは、神の性質の一つであり、神の慈悲は、敬虔な人間から不信心者、善を行う者から悪を行う者まで、全ての人に及ぶことを意味します。神は、世界を創造し、そこに人間の生命の源を据え、尽きることのない慈愛の雨を降らせます。また、「ラヒーム・慈愛あまねき」という言葉は、神の特別な慈愛を指しています。なぜなら、神の慈愛は、神に従うふさわしい僕のみに注がれるからです。コーラン第33章アル・アハザーブ章部族連合、第43節には、次のようにあります。エ「神は敬虔な人間に慈悲を与える」  実際、信仰と敬虔さの光りで心を満たし、ふさわしい行いをし、美徳を身につけた人間は、神の慈悲に授かるのです。

聖典コーラン・第一章、アル・ファーテハ・ハムド

宗教問題の専門家によれば、ハムド章の最大の目的は、人間の神との関係を調整し、幾つかのメッセージを伝えることです。最初のメッセージは、人間は自らの行いを神の名によって始め、朝も夜も、いつの瞬間にも、神のことを心に留めることです。第二のメッセージは、人間は人生において、唯一の神への信仰心を、行動にも考え方にも反映させるべきだ、ということです。「あなたのみを崇拝し、あなたのみに助けを求める」という言葉を読み上げることで、多神教崇拝や偽りから離れ、神のみに助けを求め、神のみを、世界の人々の崇拝の対象と見なし、神に対して平伏すべきだ、ということです。

 

「私たちを正しい道に導きたまえ」とは、人間が常に、導きを必要としていること、常に成長と救済を求めていることを示しています。ハムド章の最後の節は、導かれた人々について触れています。つまり、迷いに陥った人とは道を分かつ人々です。この章は最後に、「人間は人生において、軸となる道を知り、様々な道の中から、最高のものであるまっすぐな正しい道を選ぶべきだ」というメッセージを届けています。この章は、3つの道について触れています。一つ目は、正しいまっすぐな道で、そのような道を進む人は、導きという恩恵に授かり、正しく導かれた人となります。二つ目は、真理に抵抗し、それに固執し、他人をも迷わせようとする人々の道です。そして三つ目は、迷いに陥った人たちの道です。

 

いずれにせよ、ハムド章で、イスラム教徒は、まっすぐな正しい道、つまり導きを得、神の特別な恩恵と恩寵に授かった人々の道に導きたまえと神に求めます。最後にもう一度、ハムド章をご紹介いたしましょう。

「神よ、あなたのみを崇拝し、あなたのみに助けを求めます。私たちを正しい道へと導きたまえ。道に迷った者や怒りを買った者の道ではなく、私たちをあなたへと近づける道に」

 

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