6月 03, 2018 22:48 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回は、コーラン第54章アル・ガマル章月についてお話しします。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アル・ガマル章はメッカで下され、全部で55節あります。

 

この章で述べられている内容は、最後の審判が近づくこと、月が裂けること、反対者による神の節の否定、預言者ヌーフの反抗的な民の物語とヌーフの嵐、アード、サムード、ルートの民の物語、彼らの預言者に対する反対やその運命、フィルアウンの一族と彼らへの懲罰、これらの民とイスラムの預言者の反対者や多神教徒たちとの比較、最後の審判での罪を犯した人々への懲罰と敬虔な人々への偉大な報奨となっています。この章の節は多くが短く簡潔で、衝撃的なものとなっています。

 

アル・ガマル章の第1節にはこのようにあります。

 

「最後の審判が近づき、月が裂けた」

 

この章の第1節では、2つの重要な出来事について触れています。一つは、最後の審判が近づくことで、それは創造世界の大きな変化を伴っており、来世の生活への始まりです。もう一つは、月が裂けるという大きな奇跡であり、それは神にはあらゆることを行う力があること、預言者の導きが正しいものであることのしるしです。

 

その夜は、14日目の夜でした。有名な伝承によれば、数人の多神教徒が預言者の許にやって来て言いました。「ムハンマドよ、あらゆる預言者は自分が預言者であることを証明するために奇跡をもたらした。あなたも自分の主張が正しいことを証明するために私たちのために奇跡をもたらしてみるがよい。もしあなたが神の預言者で、神の御前で地位を持っているのなら、月を真っ二つにして見せてほしい」 預言者ムハンマドは、神に祈り、月を真っ二つに割るよう求めました。すると、突然、月は2つに割れました。預言者は神への感謝のためにひれ伏し、彼と一緒にいた教友たちもひれ伏しました。その後、月は元の形に戻りました。

 

多神教徒たちは言いました。「ムハンマドよ、私たちの旅人がイエメンやシャームから戻ったとき、私たちは彼らに、旅の途中でそのような光景を見たかどうかを聞くだろう。もし彼らが月が裂けるのを見たと言ったら、私たちはそれがあなたの神からの奇跡であることを信じる。だがもし彼らが見なかったと言えば、あなたの行いが魔術であったことが明らかになる」 旅人たちは別の土地からメッカに戻って来た時、月が真っ二つになったことを認めました。それでもなお、多神教徒は信仰を寄せませんでした。

 

アル・ガマル章の第2節には次のようにあります。

 

「また、しるしや奇跡を目にするたびに、彼らは背を向けて言う。『これはいつもの魔術である』」

 

この節は、彼らが、月が真っ二つに裂けるなどの預言者の奇跡を何度も目にしていながら、それらのすべてを魔術と呼び、それを継続的な魔術だと考えていたことに触れています。このような中傷は、真理に屈しないための口実でした。

 

アル・ガマル章の第3節では、彼らの反対の理由と、そうした反対の悪しき結果について触れ、このように語っています。

 

「彼らは否定し、自分たちの欲望に従った。あらゆる行いにはしかるべき場所がある」

 

彼らが、預言者とその奇跡、最後の審判を否定する根源は、彼らが欲望に従っていたことにありました。頑なな心、放縦への関心、安楽主義、罪の穢れ、これらが、神の導きを受け入れる上での障害になっていました。なぜなら、その導きを受け入れれば、責任が生まれることになるからです。

 

アル・ガマル章の第6節から8節は、最後の審判と行いの清算への注目を促しています。第6節と7節を見てみましょう。

 

「だから彼らに背を向けなさい。召集者が人々を恐ろしい事柄へといざなう日を[思い起こしなさい]。彼らは[激しい恐怖に]目を閉じ、散らばるバッタのように墓場から出てくる」

 

その場面は、目にするに耐えないほど非常に恐ろしいものです。そのためにそれから目をそらします。散らばるバッタのように、という表現は、大群で移動するとき、独特の秩序を保つ多くの鳥たちとは異なり、バッタの大群は全く秩序をなさず、好き勝手にあらゆる方向へと飛んでいくことからきています。そう、この心の頑なな人たちは、その日、恐怖におののき、酔った人のようにあらゆる方向に進もうとして互いにぶつかりあいます。まるで意識を失っているかのように。

 

次の節ではこのように語っています。

 

「彼らがこの召集によって墓から出るとき、激しい恐怖のために首を伸ばして召集者の方へと急ぐ。その日の厳しい出来事への恐怖が、不信心者の全身を覆い尽くし、こう言う。『今日は痛ましく苦しい日である』」

 

 

アル・ガマル章は、頑なで口実を探す否定者たちに警告を与え、ヌーフ、アード、サムード、ルートの民、フィルアウンの一族のような過去の否定者たちから、多神教徒や罪を犯した人の結末が地獄であることを学ぶようにとしています。アル・ガマル章の第9節から先は、これらの民の運命について述べ、彼らのそれぞれが、否定と頑なさの結果を目にしたことに触れています。ヌーフの民も、そのような民の一つです。ヌーフは自分の民を導くことに失望したとき、神に助けを求めました。

 

「ヌーフは神を求め、私は[この反抗的な民に]負けました、だから助けてくださいと言った」

 

その後の節は、ヌーフの民への責め苦がどのようなものであったかについて、次のように語っています。「ヌーフの要請を受け、我々は天の扉を開き、激しい雨を次々に降らせた。大地の至るところから水が溢れて泉が沸き、天からも雨が降って共に合わさり、大きな荒れ狂う海ができた」 コーランは続けて、次のように語っています。「我々はヌーフを、板と釘で作られた乗り物に乗せた」 それから神は、ヌーフの船へのご加護に触れ、次のように語っています。「この船は我々の前で荒れ狂う波を裂き、我々の保護のもとに走り続けた。このようにして、ヌーフとその仲間たちは救われ、残りの者たちは海に沈んだ」

その後、この大きな出来事の結論として、次のように述べています。

 

「我々はこの出来事をすべての民の間にしるしとして残した。そこから訓戒を得て学ぶ者がいるだろうか?」

 

ヌーフの物語の後、この章の節は、アード、サムード、ルートの民の運命について語っています。その後、フィルアウンの一族と彼らの消滅について簡単に触れています。興味深いのは、これらの民のそれぞれの教訓に溢れた運命を述べた後、多くが、より影響力を与えるために次のような文章がきていることです。「我々はコーランを、訓戒や忠告を得られるように簡単なものにした。忠告を得る者はいるだろうか?」

 

アル・ガマル章の終盤の節で、神は否定者と信仰を寄せた人々の結末に触れています。第47節から53節を見てみましょう。

 

「罪を犯した人々は、迷いと業火の中にいる。業火の中に引きずりこまれる日、[彼らは言われる。]『地獄の業火を味わうがよい』 我々は全てのものを適当な割合で創造した。我々の命は、一瞬の一言に過ぎない。我々はあなた方と同じであった人々を滅ぼした。そこで、忠告を得る者はいるだろうか? 彼らが行ったことのすべては、書簡の中に記録されている。大小のあらゆる行いが記されている」

 

コーランは、不信心者や圧制者の行いの結末を述べた後、敬虔な人々の喜ばしい運命に簡潔に触れ、第54節と55節で次のように語っています。

 

「敬虔な者たちは、間違いなく、小川と楽園の中にいる。そこは力強い支配者の御許の誠実な場所である」

 

これらの節では、敬虔な人々の場所が興味深い形で説明されています。彼らの場所には2つの特徴があります。一つは、そこは誠実な場所であり、いかなる偽りや無意味な事柄も存在しません。真理に溢れ、天国に関する神のすべての約束がそこで果たされ、それらが正しいことが明らかになります。もう一つは、神に近い場所であることです。その神は全知全能で、あらゆる恩恵をその支配と力のもとに置いています。そのため、大切な客人を迎える上で、神はいかなるものも惜しまないのです。

 

天国の人々の報奨と恩恵について語っているこの2つの節で興味深いのは、まず、広い楽園と流れる小川という物質的な恩恵について語り、その後で、力強い支配者の御許にいるという、大きな精神的恩恵に触れていることです。それは、人間に少しずつ準備させ、その魂を飛び立たせ、喜びの中に浸らせるためです。これらの節は、真の敬虔な人間を、神という存在と慈悲のもとで安心と平穏に浸らせています。神は創造世界において、唯一の支配者、所有者であり、その力は全てに及び、人間に不思議な安心感を与えるのです。(了)