6月 13, 2018 00:04 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
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今回も前回に引き続き、コーラン第64章アッ・タガーブン章損得・後悔についてお話しましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アッ・タガーブン章はメディナで下され、全部で18節あります。

 

アッ・タガーブン章で述べられている内容は、唯一神の行動と性質、天と地の創造、人間の目に見える行い、あるいは見えない行いを含む全てに対する神の無限の知識、以前の民の運命、最後の審判、最後の審判の日、一部の人が損をし、後悔する日であり、最後の審判では勝利する者と敗北する者がいること、神と預言者への服従、財産や子孫に魅了されることの回避、神の道における施しの奨励となっています。 

 

アッ・タガーブン章の第7節と8節は、不信心者たちが、最後の審判で蘇らされることはないと考えていたことに触れ、このように語っています。

 

「言え、私の主に誓って、あなた方は皆、最後の審判で蘇る。その後、あなた方が行ってきたことについて知らされる。これは神にとってたやすいことである。だから神とその使徒、そして我々が下した光を信じるがよい」

 

アッ・タガーブン章の第9節は、人間が蘇らされること、集合の日、つまり最後の審判で彼らの行いが清算されることを告げています。その日は後悔の日です。その日、一部の人々は勝者となり、永遠の幸福を手に入れますが、別の人々は敗者となり、損害を蒙ることになります。その日、誰が現世における取り引きで損をしたのかが明らかになるのです。この節は、その日の敬虔な人々の状態について次のように語っています。

 

「[思い起こすがよい、]神はあなた方を集合の日のために集められる。その日は後悔の日であり、誰でも神を信じ、善い行いをした人は悪を覆い隠され、木の下を小川が流れる楽園へと導かれる。彼らはそこに永遠に留まる。これこそ、偉大なる救済である」   

 

アッ・タガーブン章の第16節を見てみましょう。

 

「そこで、あなた方はできる限り神に従い、聞き、服従しなさい。また施しをするがよい。それはあなた方にとってよりよいことである。出し惜しみに走らない人々、彼らは救われる人々である」

 

この節ではまず、罪を回避するよう命じています。なぜなら、敬虔さとは、何よりも罪の回避を示しているからです。その後、人々に神の言葉を聞き、神の命に従うよう呼びかけています。そして、そうした服従の中でも、特に神の最大の試練である施しの問題を強調しています。もちろん、その利益はあなた方自身にもたらされます。この節は終わりに、次のように強調しています。「吝嗇に走らない人々は救われる」 吝嗇や出し惜しみは、人間が救われるのを妨げ、善行や施しの最大の障害と見なされます。

 

神の加護を求め、施しをし、出し惜しみをしたりすることがなければ、人間は自分の幸福を保障したことになります。伝承によれば、シーア派6代目イマーム、サーデグは、夜通し神の家・カアバ神殿を周回しながら、次のように語っていました。

「神よ、私を吝嗇から守ってください」

イマームサーデグは、なぜいつもそのようなことを言っているのかと尋ねられたとき、「吝嗇や出し惜しみよりも重要なのはどんなことか」と言い、それからこの節を読み上げました。「出し惜しみに走らない人々、彼らは、救われる人々である」 

アッ・タガーブン章の第17節は、人々に出し惜しみをせず、施しをするようにと勧め、施しの効果について次のように語っています。

 

「神によい貸しを行えば、神はそれをあなた方に二倍にして返し、あなた方を赦してくださる。神は感謝し、忍耐強い方であられる」

 

このような興味深い表現は、神の道のための施しに関して、コーランの中で何度も使われています。世界の創造主である神は、あらゆる恩恵を与える方であり、あらゆるものの真の所有者です。そして私たちに施しという貸しをするよう求め、それに対して、赦しと倍の報奨を約束すると共に、私たちに感謝もしています。これらは神が必要としているためではなく、神の僕たちへの恩恵と愛情によるものです。これ以上の慈悲や愛情を想像することはできないでしょう。私たちは神に融資として何かを与えられるような存在でしょうか?また与えられるほどのものを持っているのでしょうか?その上、それほど多くの報奨を受け取ることができるのでしょうか?これらは皆、施しの重要性と、僕たちに対する神の無限の慈悲を示しているのです。