6月 17, 2018 22:02 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回は、コーラン第75章アル・ギヤーマ章復活を見ていくことにいたしましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アル・ギヤーマ章はメッカで下され、全部で40節あります。

 

この節では、その名前からも明らかなように、復活と最後の審判の日を中心に、様々な問題について述べられています。ただし、いくつかの節では、聖典コーランとそれを否定する人たちに関しても述べられています。

 

アル・ギヤーマ章は、最後の審判と人間の目覚めた良心の呵責に誓いを立てた上で、「復活は真理であり、あなた方は皆、最後の審判の日によみがえ らされ、その行いの報いを受ける」と強調しています。この2つの誓いの間には、私たちが道徳的な良心の存在により、復活と最後の審判の存在を認めるという 関係性が存在します。

 

人間の魂の中にある良心は、善いことを行った際、人間の精神を喜びで満たし、報奨を与えます。一方で、悪いことを行ったり、罪を犯したりした際に は、その人の精神には強い圧力がかかり、裁きを受けます。時に、この良心の呵責は責め苦から逃れるため、自殺を試みるほどのものになります。この 章は、人間の存在という小さな世界が、心の中で小さな裁きを行うのだから、大きな世界でも必ず、大きな正義の裁判が行われる、ということへの注目を促して います。

 

アル・ギヤーマ章の第3節と4節を見てみましょう。

 

「人間は、自分の骨が集められることはないと考えるのか?そう、我々は、人間の指[の指紋]をそろえることもできる」

 

明らかに、コーランは学術書ではありません。しかし、最も崇高な目的を遂げるため、すなわち、人間を導き、目に見えない事柄を信じさせるた め、その節のあちこちで、何世紀も後に人間を驚かせるような、非常に繊細な点に触れています。人間の指紋は、一人として同じ物を持っておらず、双子でさえ 異なっており、それによって世界中で一人ひとりの人間を識別することができるものです。

 

コーランが、死人の指紋を再び創造することに触れているのは、全知全能の神が、人間を他人と区別する特徴でさえも、再び創造することができる、とい うことを人類に理解させるためです。このような指摘だけで、賢い人間にとっては、唯一の創造主である神が全知全能であること、死や、死後の生が真理である ことを理解するに十分なものです。

 

アル・ギヤーマ章の第5節は、人間の良心や魂に語りかけ、復活を否定する理由のひとつに触れ、次のように語っています。エ;「人間は復活を疑ってい るのではなく、それを否定することによって、あらゆる圧制や誘惑、罪から解放され、それによって自らの良心を偽りで満たすとともに、神の創造に対 する責任を逃れようとする」 コーランは概して、人間の次のような3つの本質に触れています。

 

一つ目の本質は、反抗の精神であり、人間を常に、醜さや悪へと誘惑し、欲望を美しいものに見せます。

二つ目は目覚めの精神であり、まだ罪を完全 に免れたわけではなく、時には過ちを犯すこともありますが、すぐに罪を悔い改めます。これが、「道徳的な良心」と呼ばれるものです。

三つ目は、確信の段階 に達し、反抗的な本質を抑え、責任感と完全な敬虔さを備え、簡単には罪を犯さないものです。

 

2つ目の本質である目覚めの精神は、人間の魂の中にある小さな裁判所の役目を果たしており、最後の審判と同じようなものです。

良心は、最も重要な問題を、最短の時間で審議し、最終的な判決を下します。同じように、最後の審判について、コーラン第13章ラアド章雷電、第41節には次のようにあります。

 

「神は判決を下し、神の判決が否定されることはない。神の清算は迅速である」

 

良心による裁判は、証言を必要とすることなく、裁かれている人間自身の認識を、その人の利益、あるいは損害な材料として受け入れます。最後 の審判でも、人間の各部分、手足や肌が、その人の行いの証言者となります。コーラン第41章フォッスィラト章解明の第20節で、神は次のように語っていま す。

 

「地獄の業火の傍らに達すると、彼らの耳や目や肌は、彼らに対して証言する」

 

この良心による裁判と最後の審判の間の類似性は、復活が必ず起こるものであることを示すもう1つのしるしとなっています。

 

アル・ギヤーマ章の7節から9節は続けて、“最後の審判の日とはどのような日であるか?”とする質問に対し、まず、それが起こる前の出来事、つ まり、世界に起こる大きな変化と、その秩序の崩壊に触れ、次のように語っています。「そのとき、人々の目は恐怖からくらみ、月は光を失い、太陽と月が一緒 になる」

 

太陽と月が一緒になることに関しては、月が少しずつ、太陽にひきつけられて近づいて重なり、どちらも光を失う可能性が存在します。その結果、地 球は恐ろしい闇に包まれます。こうして、大きな変化と革命により、世界は終わりを迎えます。その後、別の大きな変化により、人間の復活が始まります。その 日、最後の審判を否定していた不信心者や罪を犯した人たちは、あまりの恐怖に避難場所を求め、その罪の重さと責め苦への恐怖から逃れようとします。

 

しかし、そうした人々に対し、アル・ギヤーマ章の第10節から13節は次のように述べています。

 

「決してそのようなことはない。逃げる道や隠れ場所はない。その日、最終的な場所は汝の主に向かうのみである。その日、人間は以前に送っていたすべての行いを知らされることになる」

 

 

アル・ギヤーマ章では、よい行いをした敬虔な人間と悪事をはたらいた不信心者の最後の審判での様子が描かれ、次のように語られています。「その日、 敬虔な人々の顔は喜びに包まれ、その主を見つめ、その類まれなる本質へと惹きつけられる。それに対し、不信心者たちはしかめ面をしちえる。彼らは責め苦の しるしと、自分の行いの記録が悪いもので溢れているのを見るとき、焦りを感じ、失望し、表情を歪める。彼らは非常に厳しい責め苦があることを知っている」

 

アル・ギヤーマ章の第26節は、別の世界への扉である、死という痛ましい瞬間について述べています。コーランによれば、この瞬間は、真の敬虔な人間 にとっては容易なものですが、信仰のない人々にとっては非常に厳しいものとなります。シーア派6代目イマーム・サーデグは次のように語っています。

 

「敬虔な人間にとって、死は香水のようなものであり、そのにおいをかぐと、眠りに似たような気分になり、完全に痛みや苦しみを忘れる。しかし、不信心者にとっては、さそりや毒蛇にかまれたか、それよりも激しいものである」

 

死の瞬間、その人は責め苦のしるしを目にし、自分の行いの結果を知り、そのときになって信仰を寄せますが、その信仰がその人の状態の助けになること はありません。このとき、周囲の人たちは大慌てで救われる道を見出そうとします。アル・ギヤーマ章の第27節は次のように語っています。

 

「また、これ らの病人たちを救ってくれる誰かがいるのか、と言われる」

 

病人が人生に対して完全に失望し、世界との別れを確信し、死の苦しさから膝を抱えるとき、神へと立ち返り、神の公正な審判に立たされます。すべての道は神へと通じます。神のもとに返るのは、全ての人間の運命です。

 

 

アル・ギヤーマ章の終盤の節は、復活に関する2つの興味深い論理を述べています。第36節は、創造の目的に触れ、次のように語っています。

 

「人間は、目的もなく放置されると考えるのか?」

 

神がこのような広大な世界を、これほどの驚異と共に人間のために創造したのに、人間の創造において何の目的も持たないなどと、どうしたら考えることができるのだろうか?その後、神の力に触れ、次のように語っています。

 

「彼は、注がれた私の精液ではなかったか。その後、血の塊となり、神は人間を創造し、均整のとれたものとした。それから男女の性の創った」

 

全知全能である神は、価値のない精液に、毎日、新たな創造を与え、新たな生命を注ぎ、新たな形にします。こうして、母親の胎内から、完全な人間の形で生まれています。

 

アル・ギヤーマ章の第40節は次のようにあります。

 

「そのような神が、死人をよみがえらせることができないと考えるのか?」