6月 20, 2018 22:04 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回は、コーラン第83章アル・ムタッフェフィーン章量をごまかす者をお送りします。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アル・ムタッフェフィーン章はメッカで下され、全部で36節あります。この章では、量を少なく売ることへの警告、復活に対する強い信仰心の欠如と罪、最後の審判という偉大な日の罪を犯した人々、フォッジャールの運命、善を行った人々の天国での大きな恩恵の一部、現世での不信心者による敬虔な人々への愚かな嘲笑と、最後の審判におけるその逆の現象について述べられています。

 

有名な伝承学者のイブン・アッバースは、次のように語っています。

 

「偉大なる預言者がメディナに入ったとき、多くの人は、少なく売るという罪を犯していた。そこで神からこれらの節が下され、彼らもその内容を受け入れた。その後、少なく売るという罪を犯さなくなった」

預言者は、メディナの人々のためにコーランの節を読み上げた後、次のように語りました。

 

「5つの事柄に対して5つの事柄がある」 人々は、どのような5つに対して、どのような5つがあるのかと尋ねました。預言者は言いました。「民が約束を破ったとき、神は敵たちを自分たちよりも優位にさせた。また集団が神の戒律を破ったとき、彼らの間に貧困が広まった。その民が放蕩に走ったとき、彼らの間に死が広がった。また集団が少なく売るようになったとき、その農作物がなくなり、飢餓に襲われた。その民が喜捨を行わなかったとき、雨が降らなくなった」

 

アル・ムタッフェフィーン章の第1節を見てみましょう。

 

「少なく売る者たちに災いあれ」

 

この節は、人々の権利を卑怯なやり方で踏みにじる圧制者に対する神からの強い警告となっています。

 

アル・ムタッフェフィーン章の第2節と3節には次のようにあります。

 

「彼らは自分のためにはきちんとはかり、自分の権利を完全に果たすが、他人のためにはかろうとするときには、少なくする」

 

少なく売ることには、数多くの例が含まれ、サービスや奉仕におけるものにも当てはまります。例えば、労働者や職員が、労働時間の一部を他のことに当てれば、それはムタッフェフィーン、つまり、少なく売ることに当てはまり、この章ではそのことが強く非難されています。神の境界を破り、社会関係や職業、道徳における不足もまた、それに含まれます。

 

アル・ムタッフェフィーン章の第4節から6節は、少なく売ることについて次のように語っています。

 

「彼らは蘇らされると考えないのか。偉大な日に。その日、人々は世界の主の前に立たされる」

 

これらの節では、少なく売る人々が、最後の審判を信じ、すべての行いが、その日の神の大きな裁きのために記録され、清算されることを知っていたら、そのような圧制は行っておらず、人々の権利を踏みにじったりはしなかっただろう、としています。

 

アル・ムタッフェフィーン章の第7節から9節では、最後の審判の日に、悪を行った人々がたどる運命の一部について触れ、次のように語っています。

 

「最後の審判の日は彼らが考えているようなものではない。間違いなく、悪を行う人々の記録はスィッジーンの中にある。あなたはスィッジーンが何かを知っているか?それは記された書簡であり、絶対的なものである」

 

ある日、シーア派初代イマーム、アリーと敬虔な人々の集団が、メッカの不信心者たちの集団の傍らを通り過ぎたとき、彼らから嘲笑され、侮辱されました。敬虔な人々は、多くが、注目に値するような富や社会的な地位を有していなかったため、不信心者は彼らを蔑み、彼らの信仰を価値の無いものと見なし、その教えを嘲笑していました。不信心者は敬虔な人々を道に迷った人々と呼び、家族のもとに戻ったときには、自分たちが行ったことに喜んでいました。そのとき、第9節から先の7節が下され、このような不信心者の最後の審判での運命が明らかにされました。最後の審判は、現世での人間の行いを反映するものであり、そこで神の公正が実行されるため、神の公正な裁判において、今度は敬虔な人間が不信心者を嘲笑する番です。敬虔な人々は天国の王座にすわり、不信心者の悲惨な運命を見つめています。

 

聖典コーランによれば、嘲笑とは、神の敵が、神の預言者たちに対して用いる手段の一つです。嘲笑や侮辱は、高慢さに酔いしれ、論理を持たず、他人よりも自分の方が優れていると考える人々が用いるものです。不信心で、利己的な圧制者が、信仰を持つ人々に対してこのような手段を用いることは、決して不思議なことではありません。

 

今日、世界のメディアで、表現の自由を名目に、風刺画や娯楽番組、ジョークなどのさまざまな形でこのような行いが続けられています。現在も、このような古い手段を用い、真理とそれを支持する人々を排除しようとする努力が見られますが、敬虔な人々は、この節にも見られるような神の約束に注目し、心の安らぎを得、抵抗の精神を強めるのです。