6月 24, 2018 22:37 Asia/Tokyo
  • コーラン第95章アッ・ティーン章イチジク
    コーラン第95章アッ・ティーン章イチジク

今回は、コーラン第95章アッ・ティーン章イチジクについてお話しましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アッ・ティーン章はメッカで下され、全部で8節です。この章は、美しく緻密な人間の創造と、人間の成長から衰えの段階を軸にした内容となっています。それは、この章の初めにある、深い意味を持った誓いによって示されています。人間の勝利と救済の要素について述べた後、この章は、神の絶対的な支配と復活の問題を強調して終わっています。アッ・ティーン、イチジクという章の名前は、最初の節に出てくるイチジクから取られています。

コーラン第95章アッ・ティーン章イチジク

 

イスラムの預言者ムハンマドは、メッカで使命を授かったとき、神の命や指示を人々に伝え、誤った信仰や欲望に従わず、神の宗教のみに従うよう人々に呼びかけました。しかし、メッカの多神教徒は、預言者の言葉に耳を傾けず、自分たちの誤ったやり方を続けました。そのような状況の中で、このアッ・ティーン章が下されました。そして、神の宗教が優れていることとそれに従うことが重要であることが指摘され、誰でもそれに背く人は、人間としての本能や理性に反対しているとして非難されました。

 

 

アッ・ティーン章の第1節から3節を見てみましょう。

 

「イチジクとオリーブに誓って。シナイ山に誓って。また、この安全な町に誓って」

 

イチジクとオリーブは非常に有益な果物であり、栄養価が高く、多くの効能があります。イチジクは、天国の果物に最もよく似ているとされ、オリーブの木は、コーランの中で、“祝福された木”とされています。

 

一部のコーラン解釈者は、これらの誓いを、啓示宗教が生まれた土地への注目を促すものだとしています。預言者ヌーフが遣わされた場所は、イチジクの木がある山々です。また預言者イブラヒームは、多くのオリーブの木がなる山々に遣わされました。聖地ベイトルモガッダス・エルサレムはそのふもとにあります。また、誓いの中に出てくるシナイ山は、ムーサーが預言者としての使命を受けた場所です。そして安全な町であるメッカは、イスラムの預言者が遣わされた場所でした。神はこれらの場所に誓いを立てることで、ヌーフ、イブラヒーム、ムーサー、ムハンマドといった偉大な預言者たちにより、すべての場所や時代において、人々に自らの宗教を紹介しようとしました。その輪をつなげる最後の宗教となったのが、イスラム教です。

 

神は、アッ・ティーン章の中で、これらの誓いと共に、次のように語っています。「我々は人間を最高の形と秩序で創造した」 この節にあるタグヴィームという単語は、何かをバランスの取れた相応しい形にすることであり、この言葉が持つ意味の広さは、神が人間を、あらゆる点から、つまり肉体的にも、精神的にも、また理性の点でも、バランスの取れたものに創造したことを指しています。なぜなら、神は人間にあらゆる能力、偉大さ、尊厳、理性と本能を与え、成長の道を歩むことができるようにしたからです。そしてまた、理性を強化し、導くために、神の預言者たちが遣わされました。

 

宗教法や預言者たちの教えは、人間の理性や本能と完全に合致したものであり、人間が成長と幸福にいたるための唯一の道です。しかし、一部の人間は神の宗教を受け入れることを拒み、人間としての本質に反して歩みを進め、人類を道に迷わせるような教えや自分の欲望に従います。アッ・ティーン章の節は続けて、人生の中で神以外の道を歩むことは、人間が本来の地位から遠ざかる原因となり、神の宗教への反対を続ける者は、人間としての地位を失うだけでなく、あらゆる存在物よりも卑しいものになるとしています。

 

こうした人々に対し、神から与えられたあらゆる能力、精神的、物質的な無限の恩恵を最高の形で利用し、神への信仰と、神の僕としてふさわしい行いによって幸福を手に入れ、現世と来世で神の無限の報奨を受け取る人々がいます。彼らには、何の欠点もない永遠の大きな報奨が与えられるのです。

 

アッ・ティーン章の第7節は、感謝をしない人間に次のように語りかけています。「これほど多くの根拠が示された後、なぜ審判の日を否定するのか? あなたとこの広大な世界の構造は、現世での短い生活が、創造の最終的な目標ではあり得ないことを示している。これらすべては、より完全で広大な世界のための準備である。創造の世界、毎年植物が枯れて再び成長することは、人間の前に生と死の姿を描き出している。一方で、神はすべてのことを知っており、どのような学者よりも賢い存在であることを誰もが知っている。神の掟は、世界で最も確かな法である。そのため、理性にしたがって宗教の教えと法のみに従うべきである」

そのような事実は、次の第8節で、疑問の形によって述べられています。

 

「神は最も優れた決断を下す方ではないのか?」