北西部タブリーズ(6)
今回は、イラン北西部の東西両アーザルバーイジャーン州にあるキリスト教会・修道院をご紹介してまいりましょう。
イランにあるキリスト教会の中でも、東アーザルバーイジャーン州にある聖ステファノス修道院、そして西アーザルバーイジャーン州にあり、黒い教会としても知られる聖タデウス修道院は、キリスト教の歴史、そして建築・芸術の面でより大きな重要性を有しています。この2つのキリスト教会は、イラン北西部の大都市タブリーズ近郊の、最も重要な観光名所とされています。イスラム教国のイランにおいて、イスラムの宗教施設の傍らにこのようなキリスト教会が存在することは、イラン国内で複数の一神教の信者たちが平和共存していることを物語っています。
イランは、多数の民族や宗教が行き交う十字路と呼ばれています。この広大なイランでは、ほとんどの宗教の痕跡が見て取れます、イラン古来の一神教であるゾロアスター教を筆頭に、ユダヤ教やキリスト教といった全ての啓示宗教は、その出現当初は、イランに数多くの熱心な信者を有していました。当然ながら、イランに古くから世界の主要な啓示宗教が存在していた痕跡は、この広大な国土の至る所に残っており、複数の啓示宗教の平和共存を証明するとともに、人類の文化遺産の一部とみなされています。
東西両アーザルバーイジャーン州にある教会も、テヘランやイスファハーンなどの都市にある教会と同様に、歴史的に特別な重要性を持っています。また、世界の全てのキリスト教徒の敬意の対象となっている事に加えて、建築や芸術の点でも、驚嘆を誘う大傑作とされています。
ユネスコは、2008年にイランのアーザルバージャーン地方にあるおよそ20の教会、そしてキリスト教の宗教施設を、「イランのアルメニア人修道院建造物群」として世界遺産に登録しました。
聖タデウス修道院は、トルコ語で「黒い教会」を意味するカラ・ケリサと呼ばれ、西アーザルバーイジャーン州のチャールドラーン平原にあり、古代アルメニア人の修道院でイラン初のキリスト教建築とされています。この教会は黒い石材でできていることから、黒い教会と呼ばれていますが、アルメニア人の間では聖タデウス教会という名称で知られています。タデウスという名称は、イランに存在していた初のキリスト教徒で、イエス・キリストの12弟子の1人タダイに関係しています。タダイは、布教活動のためインドに赴きましたが、途中、この教会がある地域で不況のさなかに殉教し、この地に埋葬されています。
聖タデウス修道院は、2つの建物がつながった形になっており、建物の1つは黒く、もう1つは白い建物となっており、建設されてからの年数は、一方が築700年、もう1つが200年とされています。現在の建物のうち古い部分は、モンゴル人の支配するイル・ハン朝時代、すなわち14世紀のものです。しかし、この修道院は1319年に大地震により崩壊し、1329年にザカリヤ司教により再建されました。現在、この修道院の建物を形成している主な部分は、この時に建設されたもので、その中央には神への捧げ物や生け贄がなされる高くなった場所である、聖餐台(せいさんだい)も残っています。
この修道院の西側の部分は、白い石材で覆われており、およそ500年後に政治的な動機により建設されました。19世紀の初めに、ツァーリと呼ばれていた当時のロシア皇帝が、コーカサス地方のキリスト教徒の保護を口実に、イランを攻撃しました。当時のイランを支配していたガージャール朝は、ロシア人キリスト教徒とアルメニア人の連帯を恐れ、彼らの支持を得ようとあらゆる手段を尽くしました。
ガージャール朝時代の王子で、当時のイラン軍の指揮官だったアッバース・ミールザーは、聖タデウス修道院を西側から拡張し、それまであった建物に、白い石材と美しいデザインの施された石材による建物を追加し、それに鐘楼を加えました。聖タデウス修道院のこの部分の表面には、アッバース・ミールザーの努力が、後世にまでアルメニア人たちの記憶に残るよう、いくつかの対句の詩が刻まれています。
聖タデウス修道院の黒い部分には、それほど装飾は施されておらず、13世紀初めの再建作業の際に、それまでの古い黒地のドームの周囲に、白い石材により幾何学模様のデザインが施されました。しかし、これに対し、白い部分の装飾は、黒い部分の装飾の向かい側に施されており、これはこの修道院の歴史的な建造物の装飾面での大傑作とされています。この装飾は、下地は全て石灰石でできており、容易に彫刻できることから、非常に斬新で独自性あるものとなっています。
聖タデウス教会に足を踏み入れると、数多くの花のデザインとともに、キリスト教の天使たちの肖像、預言者イーサーや聖母マルヤムの肖像が目に付きます。興味深いことに、これらの装飾の一部には、イランの大詩人フェルドウスィの英雄叙事詩『王書』に出てくる物語の内容を絵画に表したものも見られます。
西アーザルバーイジャーン州チャールドラーン行政区には、聖タデウス修道院という世界遺産に加えて、イランとオスマン・トルコによるチャールドラーンの戦いで殉教した、サファヴィー朝の宰相セイエド・サドレッディーンの墓などの史跡があります。このことから、チャールドラーン行政区には毎年国内外から、数多くの観光客がやってきます。
それではここからは、東アーザルバージャーン州にある聖ステファノス教会をご紹介してまいりましょう。
聖ステファノス修道院は、イランのアルメニア系キリスト教徒にとって、先にご紹介した聖タデウス教会に次いで2番目に重要な教会とされています。この修道院は、東アーザルバージャーン州の国境都市ジョルファーの西に17キロ離れた、ゲゼル・ヴァーンク地区(赤い庵の意味)にあります。
聖ステファノス修道院は、過疎化して人が住まなくなった村にあることから、地元民の間では多くの場合、ここは教会の廃墟として知られています。この修道院の名前になっているステファノスとは、ユダヤ人キリスト教徒で、キリスト教における初の殉教者ステファノからとったものです。この地域にキリスト教の施設があることは、この教会の周辺地域の最初の住民がアルメニア人であったことを裏付けるものです。これらのアルメニア人は、第1次世界大戦の勃発後に、この地域からほかの地域へと移住していきました。
聖ステファノス修道院は、毎年アルメニア人評議会により決定される特定の日に、世界各地のキリスト教徒が大集合する場となります。その際には、信者たちがここを巡礼目的で訪れ、ろうそくを灯して神への祈りを捧げます。多くのアルメニア人の間では、この修道院はイエス・キリストの12弟子の1人により建てられたと考えられており、彼らの見解ではここは特別な重要性を有しています。
この修道院の入り口へと続く道は、比較的険しい上り坂になっています。ここでまず最初に目に付くのは、背の高い樹木の間から見えている、石でできたドームです。
1本の曲がりくねった石の多い道を進んでいきます。その途中には、円筒形の小さな塔があり、その両側に、高さ5メートルほどの石造りのドームの扉があります。この道をずっと進んでいくと、聖ステファノス修道院の全景が現れ、通行人や旅人たちを紆余曲折の歴史めぐりや、その美しく堅固なアーチの下へといざなっています。壮観なアーチや広間を一通り見学したあとには、ひんやりした水が流れる小川のそばに高くそびえる樹木の木陰でくつろぐことができます。
国境都市ジョルファーは、冬の寒さは厳しいものの、夏は比較的暑く、春と秋には温和な陽気となりますが、夜には気温が下がります。東アーザルバーイジャーン州の中心都市タブリーズからジョルファーまでは、およそ2時間の道のりがありますが、タブリーズを訪れる人々の多くが、歴史あるジョルファーの町にも足を運びます。
西アーザルバーイジャーン州の町マークーの近隣には、聖母マルヤム教会という歴史ある教会があり、ここはゾルゾル教会という別名でも知られています。この教会の近隣には大自然の絶景が広がり、見る者をうならせます。この教会は、先にご紹介した聖タデウス修道院と同様に、ザカリヤ司教により建設され、宗教、文化、慣行儀礼を伝授する拠点の1つとなりました。
聖母マルヤム教会の建物は小さめで、全体的に十字架方となっており、同時代のそのほかのアルメニア教会と同様に、削られた石材により造られています。この教会の注目すべき特徴は、建物が本来あるべき場所になく、ダム建設のために本来の場所より600メートルずれた場所に移転されたということです。こうした事例は、イランの文化・歴史遺産の保護管理の歴史における重要な出来事とされ、今なおほかに例がないとされています。
大都市タブリーズには、複数の一神教の信者たちが平和共存してきた証のシンボルがほかにも存在します。その1つが、セイエドッサージェディーン・モスクであり、これはアフシャール朝時代のものとされています。このモスクは、シルクロードの要衝の町に立地していることから、過去数百年間にわたって、シーア派教徒やスンニー派教徒、ユダヤ教徒の団結の場となってきました。現存する資料によれば、このモスクが建設されたのは、サファヴィー朝以後の時代とアフシャール朝のナーデルシャーの時代とされています。
セイエドッサージェディーン・モスクは、諸宗教の信者の集まりの場、礼拝の場として利用されていました。このモスクに様々な宗教のシンボルが存在することは、過去の時代、この町においてこれらの宗教の信者たちが団結と共感を有していたことを物語っています。
セイエドッサージェディーン・モスク
次回もどうぞ、お楽しみに。