1月 26, 2019 16:28 Asia/Tokyo

コーラン 第30章 ルーム章 ローマ 第35節~第38節

慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

 

第35節
「我々は、彼らが神と同等に配するものについて語る確かな根拠を、彼らに下したとでもいうのだろうか?」(30:35)

 (35) أَمْ أَنْزَلْنَا عَلَيْهِمْ سُلْطَانًا فَهُوَ يَتَكَلَّمُ بِمَا كَانُوا بِهِ يُشْرِكُونَ

 

この節は、これまでの議論に続き、多神教信仰と多神教徒の信条を否定し、次のように語っています。「神と同等に別のものを配する多神教徒たちは、それに対して確かな根拠があるのだろうか? 自然の秩序、あるいは彼ら自身の存在に、神と同等のものが存在することを示すしるしを見たのだろうか? あるいは、神から書物が下され、その書物の中で、神が同等の仲間を持つことを認めているのだろうか? 明らかに、それらの答えはいずれも、“否”である。多神教徒は、先人たちの道に盲目的に従い、無知であるために、このような迷信的な信条を持っている。そこには、いかなる理性的な根拠も存在しない」

第35節の教え
●    イスラムは、論理的な宗教です。反対者にもその根拠を求めます。
●    確かで深い根拠を持つ唯一神信仰に反し、多神教信仰には根拠がありません。多神教信仰は、いかなる論理的な理由も基盤も持ちません。

 

第36節 
「また、我々が人々に慈悲を注ぐと、彼らはそれに喜ぶが、彼らが行ったことのために災難が降りかかると、突然、希望を失う」(30:36)

(36)وَإِذَا أَذَقْنَا النَّاسَ رَحْمَةً فَرِحُوا بِهَا وَإِنْ تُصِبْهُمْ سَيِّئَةٌ بِمَا قَدَّمَتْ أَيْدِيهِمْ إِذَا هُمْ يَقْنَطُونَ

 

前の節に続き、この節は、多神教徒や信仰心の弱い人々の特徴のひとつを、このように表現しています。「彼らは傲慢さと希望の間で揺れ動いている。恩恵を受ければたちまち傲慢になり、問題が起これば希望を失う。それに対し、真の敬虔な人間は、感謝と忍耐の間にいる。彼らは神の恩恵に感謝し、様々な問題に耐え忍ぶ」

興味深いのは、この節、そして同様の節で、さまざまな恩恵が、神からの慈悲として紹介されていることです。それに対し、多くの災難や悪い出来事は、人間自身の行いによるものだとしています。なぜなら、神は慈悲と恩恵以外のものを僕たちに望んでおらず、人間の困難や問題は、その人自身の誤った行いや他人の圧制によるものであるからです。

第36節の教え
●    信仰のない人、あるいは信仰の弱い人は、恩恵があると、すぐにそれに酔いしれて傲慢になりますが、少しでも悪い出来事に見舞われると、希望を失います。
●    現世の恩恵は不変のものではありません。人間はそれに心を奪われてはなりません。もしそうなれば、それを手放したとき、希望も失うことになります。

 

第37節

「彼らは見なかったのか。神がお望みの者に、日々の糧を広げたり、狭めたりするのを。明らかに、このことの中には、信仰を寄せる者たちへのしるしがある。」(30:37)

(37)أَوَلَمْ يَرَوْا أَنَّ اللَّهَ يَبْسُطُ الرِّزْقَ لِمَنْ يَشَاءُ وَيَقْدِرُ إِنَّ فِي ذَلِكَ لَآيَاتٍ لِقَوْمٍ يُؤْمِنُونَ

第38節

「だから、親類や貧者、旅人の権利を守りなさい。これは、神の満足を得たいと望む者たちにとってよりよいことである。彼らは救われる人々である」(30:38)

(38) فَآتِ ذَا الْقُرْبَى حَقَّهُ وَالْمِسْكِينَ وَابْنَ السَّبِيلِ ذَلِكَ خَيْرٌ لِلَّذِينَ يُرِيدُونَ وَجْهَ اللَّهِ وَأُولَئِكَ هُمُ الْمُفْلِحُونَ 

 

前の節では、「信仰の弱い人々は、神の恩恵を受けると、それに酔いしれて高慢になるが、恩恵を失うと、希望を失う」と述べていました。それに続いて、この節は次のように述べています。「信仰のある人々は、日々の糧が神の手の中にあり、それが増えたり減ったりするのは、神の英知と知識に基づいたものであると考えている。富を手にするために必死に努力をしても、わずかな利益しか得られない人もいれば、普通の努力をしただけで、多くの富を得る人もいる」

重要なのは、私たちが、できる限りの努力をすべきだということです。しかし、その努力の実りがどれほどのものになるかは多くの要素にかかっており、そのほとんどは私たちが決められることではありません。私たちは、富を手に入れるために多くの努力をしても、それが思うようにいかなかった場合、希望を失い、落ち込みます。しかし、もし努力を義務と見なし、その結果を神に委ねれば、私たちは常に、自分たちに与えられたものに満足し、神に貸しがあると考えたりはしないのです。

この節は続けて、他人に対する人間の責任に触れ、次のように語っています。「とはいえ、日々の糧をより多く持つ人には、多くの責任がかかっており、家族だけでなく、社会の恵まれない人たちのことも考える必要がある。中でも、親類が優先される」

この節の終わりでは、施しの目的と動機に触れ、次のように語っています。「とはいえ、この施しの結果が得られるのは、名声や権力を得るためではなく、神の満足を得るために行った場合である。また、もし施しが神の満足ゆえのものであれば、恵まれない人々に恩を着せ、自分の行いを誇示することもない」

 

第37節~第38節の教え
●    日々の糧を神からのものと考えれば、社会の恵まれない人や貧しい人への施しを怠ることはありません。
●    恵まれない人への施しが、純粋な心による神のためのものでなければ、それを受け取る人がその恩恵にあずかったとしても、それを行った人に来世での利益は残りません。
●    人間は、親類や貧しい人に対して義務を負っており、それを正しく履行する必要があります。
●    裕福な人は、ザカートやホムスといった喜捨や施しの他に、社会から貧困を排除するために、自分の財産から施しをする必要があり、義務とされる喜捨だけで満足すべきではありません。
●    イスラムは、社会から貧困を撲滅することに特別な注目を寄せています。そのため、恵まれない人、弱い立場にいる人々への支援を強調しています。