9月 01, 2019 13:14 Asia/Tokyo
  • シルクロード
    シルクロード

前回は、パールス人たちが初めて、アケメネス朝という史上初の、そして最大のイランの王朝を築き、イラン高原に存在していたあらゆる文明を統一したことについてお話しました。彼らは「王の道」と呼ばれる道を敷設することで、様々な人々が物質的・精神的な交流を行なう機会を初めて整えたのです。王の道は、イラン南西部のシューシュから始まり、チグリス・ユーフラテス川を通過したあと、小アジア・トルコ南西部のエフェソスまで続き、その全長は2680キロメートルにも及びました。この道は軍事、情報、治安維持のためだけでなく、通商や文化交流などにも使われ、初めて様々な文明の人々の関係を世界レベルで築いたのです。

「王の道」はその後、シルクロードの一部として、アルサケス朝パルティア時代に地中海沿岸から現在の中国・新疆ウイグル自治区まで延伸しました。イランはその中継地のひとつとして、シルクロードの要衝となってきました。長距離に及ぶシルクロードには、多くの文明や宗教、文化が存在し、この道は2000年以上前からそれらをひとつにつなげてきたのです。シルクロード上に位置する多くの文明には、イランの古代文明やイスラム教国としてのイランの痕跡が見られ、この地域におけるイランの影響がうかがえます。

イランは世界全体のほぼ東側に位置する中国やインドとは異なり、地理的には世界の中央に位置し、常に国際的な交流を行なう可能性を持っていました。イランの文化は、中国やインドの文化とは違って、常に外部の文化と接触しており、世界的な交易の経路の要衝として、様々な物質的、精神的交流の只中にあったのです。このため、イランの文化的な変化は、外的要因によるものであり、中国や日本と違い、地理的、地域的な枠組みの中で文化面での内発的な変化を経験することはありませんでした。研究者によると、イランの文化は、様々な文化の中で媒介としての役割を果たす場合のみ存続が可能だったということです。

前回の番組でお話したように、アルサケス朝はシルクロードに特別な関心を持ち、その後のサーサーン朝もシルクロードから多くの利益を得ました。この時代もアルサケス朝時代と同じように、シルクロードの中心はチグリス・ユーフラテス川流域にある首都クテシフォンに置かれていました。サーサーン朝時代、イランの人々は生糸の商業取引に加えて、高品質の絹織物を生産し始め、熟練した職工が、美しい絹織物を生産していました。中国の生糸は、シューシュにあるサーサーン朝政府専属の工房や、ジョンディーシャープールと呼ばれていた学園都市、そしてイラン南西部シューシュタルで絹織物の製造に使われ、この絹織物はシルクロードを通じて輸出されました。驚くべきことに、この時代の絹布のデザインはヨーロッパ全域で流行しただけでなく、中国や日本にも渡来しました。サーサーン朝時代の絹布は、日本の正倉院に収蔵されています。サーサーン朝は陸のシルクロードだけでなく、海のシルクロードも支配し、強力な海軍を組織して海上ルートで商船を活動させ、アジア側の海域においてローマ帝国に抵抗し、たいていの場合彼らをこの海域から駆逐していました。イランの人々はこの時代に、現在のスリランカにあたるサランティープ島やマラヤ海岸、そのほかの島々やインド洋沿岸で商館を経営し、これらの拠点に移住していました。インド洋の港湾に面した港町に対する支配は、これ以後のイスラム時代においても行なわれました。

ペルシャ湾、オマーン海、インド洋からインド南部にいたる香料の道はこの時代、意気盛んなサーサーン朝の海軍とイランの海上貿易商人により繁栄しました。インドの香料はこのルートを通じてクテシフォンにもたらされ、ここから陸路のシルクロードにより地中海やローマ、ビザンツ帝国にまで輸出されました。イランの商人はこのルートを通じて、現在の中国南部・広東省に当たる地域にまで進出し、この港で中国人から直接生糸を仕入れていたのです。サーサーン朝が滅亡し、中央アジアのトランスオクシアナやフワーラズム、トルキスタンの人々がイスラム教徒に改宗する前、シルクロード上のトルキスタンの陸上の交易は、トランスオクシアナに住んでいたイラン系民族のソグド人によってほぼ独占されていました。昔から彼らソグド人は、この地域一帯で商業的な組織を持ち、多大な文化的な影響力を持っていたのです。この時代、イランの船はハノイなどのベトナムの港や中国南部の広東まで進出していました。イラン文化圏全域に交易ルートが存在したことから、常にイランの文化と他の文化が交流する下地が整っていました。これらのルートを通じて、イランの文化と人々は数百年前まで、常に世界のほかの文化や民族との商業的・文化的な交流を行っていたのです。

これまでにお話しましたように、イランは地理的な意味、とりわけ文化・歴史的な地理という意味で、最初の文明の揺籃の1つであるとともに、芸術、宗教、思想が開花し、重要な物質的成果を挙げた中心地なのです。この地は、歴史的に様々な民族や部族が住み、移住し、さらには地域あるいは大陸規模での戦争がもたらされ、多くの戦いが行われてきた地域とみなされています。このような広範な交流により、イランは複数の経路を持つネットワークを生み出すことに成功し、それによりあらゆる地域の文明の総体が、ほかの地域と効果的に結びついたのです。

言い換えれば、イランは古い文明や文化の中心に位置しており、つまり、その東に中国やインド、その西にチグリス・ユーフラテス川流域、エジプトや地中海地域、ローマ帝国が存在していたということになります。このため、世界的に人種的、地域的な重要性を持っていたとともに、世界的にも重要な役割を果たし、本当の意味で世界の東西を互いに結び付ける複数のルートを生み出したのです。100年前まではあたか、も特定の地域や歴史に限定されているとみなされていたシルクロードは、現在では、古代からイスラム時代、そしてその後の歴史的に繁栄した時代から、技術が世界を支配している現代までにおいて、今なお歴史的、文化的な重要性や機能を持っていることが明らかになっているのです。

現存する資料から、古い時代の世界において、多くの思想運動や文化的、芸術的な試みは、それらを広めるためにシルクロードを利用していた、ということがわかります。多くのイスラム教徒の宣教師や法学者、そして時代の経過とともにイラン人の詩人や神秘主義思想家が、思想や信条を広めるためにこの経路を活用しました。イスラム時代には、イラン人、アラブ人のイスラム教徒の商人たちが世界を旅行しています。イラン人のイスラム教徒は大洋において、進んだ航海術を持っており、自分たちの商品を色々な地域に運んで売りさばき、新たな商品を購入して元の場所に戻っていました。この往復において、望むと望まざるにかかわらず、文化や信条の交流が行われていたのです。

中国系の人々やトルコ系の人々がイラン領内にやって来たことで、東アジアの人々の文化の一部がイランに対し影響を及ぼしました。絹や紙は中国のホータンの人々により、茶はインド人により生産されており、またこれらの地域の商人たちがイランとの間を往来したことから、こうした地域の文化的な要素も、イランにおいて定着するようになったのです。

東アジアへのイスラム教の伝来やイスラム教徒の勝利により、また、様々な人々がそれぞれの文化や文明を知ることで、交流のあり方も変化しました。このため、商業、旅行、宣教とおいった活動が新たな役割を見出しました。イスラム教徒の軍人たちはクテシフォンやチグリス・ユーフラテス川流域を平定した後、イランの南部や中部のいくつかの道や、特にホラーサーン地方などイランの東部の複数の経路を通って進出し、7世紀中盤からの100年間にわたり、ホラーサーン、トランスオクシアナを平定しました。イスラム暦96年に当たる西暦713年から714年、イスラム教徒は中国への入り口として、カシュガルを平定しました。このため、シルクロード東部の一部地域はイスラム教徒による為政者に統治され、アジア西部そして、地中海地域の広範囲が平定されたことから、シルクロードの重要な地域はほぼ、イスラム教徒の版図となりました。

シルクロードは経済的、文明的にイスラムの時代に入り、様々な宗教的交流が行われ、15世紀から16世紀まで繁栄しました。しかし、ヨーロッパの植民地主義者がアジアに入り、新たな海上のルートを発見すると、交通ルートに転換が生じ、植民地主義者の利益に沿った新たなルートが作られ、過去のアジアの歴史的なネットワークは途絶え、アジアの人々の本来の社会的な生活は変わっていったのです。

 

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