アブーレイハーン・ビールーニー(2)
オーストリア・ウィーンの国連事務所のビルの前には、4人の歴史上の偉大な学者、天文学者、医学者の像が建てられています。この4人の偉大な学者は、世界のどこの出身で、どの国に属している人々なのでしょうか。まず一つ目の像は、イランの哲学者、医学者であるイブン・スィーナーです。彼は包括的な学術書で、哲学書でもある『治癒の書』の著者であり、彼の『医学典範』は、世界の医学の歴史の中で、もっとも有名な書物とされています。2番目の像は、10世紀から11世紀のイランの偉大な天文学者、数学者、そして歴史家でもあるアブーレイハーン・ビールーニーで、彼は暦も制定しました。3つ目の像は、セルジューク朝時代に生きたイランの大詩人ハイヤーム・ネイシャーブーリーで、彼は数学者、天文学者としても世界的に有名です。最後の4つ目の像はイランの医学者で化学、哲学の分野でも後世に残る書籍を記したザカリヤー・ラーズィーの像で、彼はアルコールや硫酸を発見者したことで知られています。これらの4人の学者は、広大なイランの地で教育を受け、自らの知識を世界中に広めました。
これらの偉大な学者の像は、イラン南部のペルセポリスとして知られる古代遺跡、タフテ・ジャムシードの4つのアーチの下にも建てられており、イランの人々が人類の学術や知識の発展に、幅広く関わっていることを思い起こさせるものです。
アブーレイハーン・ビールーニーはイランの優れた学者で、数学、地理学、地学、人類学、物理学、天文学などの様々な分野の学問において、当時、頭角を現していました。彼は、現在の中央アジアにあたるハーラズム地方の町カースで生まれ、現在のアフガニスタンに当たるガズナ朝の首都ガズナで一生を終えています。この2つの町は当時、イランの諸王朝の領域の中にありました。ビールーニーが後世に残した業績の一部としては、18種類の金属や鉱物の密度の測定、地球の半径と周囲の測定、地図の新たな作成法の考案、都市間の距離の測定、インドの人々の歴史や信仰に関する研究などが挙げられます。
ヨーロッパの研究者のビールーニーに関する業績の調査によると、ビールーニーが記した論文や著作は全部で180に上るということです。このうち、およそ115の著作は数学、天文学などに関するもので、そのうち現存しているのは28の著作のみです。ドイツの東洋学者エドワード・ザッハウは、ビールーニーを史上最大の天才であるとしています。この驚くべき天才は、歴史学、文学、哲学、自然科学、数学、天文学といった、当時の学問分野の多くに精通していました。
12世紀から13世紀にかけては、学術書のアラビア語からラテン語への翻訳が盛んに行われていましたが、ビールーニーの著作はいずれもラテン語に翻訳されませんでした。これにはおそらく、イスラム時代の作家の伝記が、ビールーニーの著作について触れていなかったことが影響していると思われます。当時、ビールーニーに関しては、イブン・アビーウサイバという学者のみが数行程度の記述を行ったのみで、13世紀の学者イブン・ハッリカーンに至っては、ビールーニーの名前すら挙げていません。また、ジョウザーニーや彼の後継者、モウイドッディーン・オルズィーやトゥスィーなど、天動説を示したプトレマイオスの天文学への批判を提起し、学者たちに他の学術規範を提示していた同時代の学者と違い、ビールーニーについてはこの分野に関する著作が残っていません。この批判は13世紀、14世紀の天文学におけるて非常に重要な側面の1つとみなされており、地動説を提起したコペルニクスの業績に影響を及ぼしています。これに関するビールーニーの著作とされているのは、星の運行に関するプトレマイオスの学説を批判した書物ですが、現在では散逸してしまっています。
ビールーニーは、あらゆる学術的な推論と共に、推論や言説の真偽を明らかにするために、実験も行なわれるべきであると考えていました。ビールーニーが新たに考案した学問における経験的な方法の活用は、その数百年後のヨーロッパにおいて、ベーコンやデカルトなどの学者によって提唱されており、現代の実験科学的な方法の基盤となっています。ビールーニーは光学の分野、とりわけ光の構造について、大変貴重な研究を行いました。
目で物体が見える仕組みについてのビールーニーの見解は、物体が光を反射して目に映る、というイブン・ハイサムの見解と似ています。これに関して驚くべきことは、この研究においてビールーニーがヨーロッパの学者よりも数百年早く、光は音よりも速度が速いことを発見していたことです。彼はどのようにして、噴水や泉などから水が上に吹き上げるのかを説明し、また泉がどのように湧いてくるか、そして井戸や泉の奥底から、水をどのようにして城砦やミナレットの上部に流すことができるかを明らかにしました。また、ビールーニーは土地の面積の測量を行うと共に、「古代の天文観測儀・アストロラーペ」という著作の結末部分では、地球の半径を割り出すための方程式を提示しています。西側の学者たちは、この方程式はビールーニーの方程式であると記しています。彼は、様々な文明や民族の間における1週間の曜日や年月の数え方について述べており、また多くの国の歴史について報告を出しています。
ビールーニーは、現在の知識と同様に地理学を研究し、その経験と調査結果を受け入れ、数学に基づく自然科学の基礎を築きました。また、地図作成においても、数学と幾何学の融合に基づく特別で革新的な方法を有していたのです。ビールーニーによって測量された現在のアフガニスタンの都市、バルフの地図では、今日の地図と比べても、驚くほど正確です。また、この偉大な学者による地球の赤道半径の値は、今日の正確な計測によるデータと比べてもほとんど誤差がなく、驚くべき正確さであり、地平線との傾角を測定します。西側の人々はこの方法に出会うまでは、この方法の発見したのはライトという17世紀の人物であるとしていました。
ビールーニーの時代からおよそ1000年後、アインシュタインは光や物体が多くの素粒子によって形成されているという光量子仮説を提唱しましたが、ビールーニーも同じような思想を提示しており、この素粒子を、「微小な物体」としています。
イランのアブドルハミード・ニールヌーリー教授は、次のように記しています。「ビールーニーは自由に、地球が太陽の周りを公転していることについて、より完全に説明している。また『なぜ物体は空中に飛び上がらないのか』という質問に対し、彼は次のように答えた。『地球が動き、太陽が動かないと仮定する人物は、地上に存在する物体が空中に浮いたままにならない理由として、地中にはものをひきつける力があり、地球が動くときに物体が空中に浮き上がろうとする動きが阻止されると語っている』と答えていた」 この見解は、りんごが木から落ちたのを見てニュートンが重力を発見する数百年前に発表されたものです。即ち、地球が太陽の周りを回っているという地動説は、コペルニクスやガリレオ以前に、既にビールーニーのようなイスラム教徒の学者により、自由に、何の反対意見もなく議論されていたのです。
ビールーニーは暦の改良を行いましたが、これは、そのおよそ600年後にローマ教皇グレゴリウス13世が改定したグレゴリオ暦よりも、さらに正確です。彼は、コペルニクスやケプラー、ニュートンよりも600年も早く、地球の自転と1年の公転、重力、地球が球体であることについて語っていたのです。
ビールーニーは比重の法則を発見し、18種類の宝石の重さを物理学的に計算して、これに関する表を作成しました。また天文学や数学に関する大辞典を記し、これは常にヨーロッパの学問において利用されています。当時の最高の天才だったビールーニーは、等比数列の和の合計の計算方法を発見し、掘り抜き井戸や噴水の造り方について正確に検討しました。ビールーニーは地球の半径を測定し、近代的な機材がない中で、地軸の傾きの角度を23.35度と計算しました。今日、近代的な測定装置を使用すると、23.27度と測定されます。このため、現在、様々な分野で後世にまで残る研究成果を出した研究者は、ビールーニーを現代の人であるとしているのです。