イラン国外にその廟があるイランの思想家
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アブーナスル・ファーラービー
今回からは、新たなテーマに入ります。前回までは歴史の中での、イランの文化や、イランの文化的、地理的な領域の広がりについてお伝えしてまいりました。今週からはイランの広大な文化圏の中で生き、現在、イラン国外にその廟があるイランの思想家を取り上げます。これらの思想家や著名人の思想や作品の多くは、イランや世界に影響を及ぼし、世界的な遺産とされています。ルーミー、あるいはモウラーナーとして知られている13世紀の神秘主義詩人モウラヴィーや、12世紀の詩人ニザーミー、神秘主義哲学者ソフラヴァルディー、10世紀から11世紀の学者ビールーニー、13世紀の学者ナスロッディーン・トゥースィーなどの人物はイランが誇る著名人であり、世界の人々は彼らの思想による大きな恩恵を受けています。また、世界的な英知は、彼らに負うところが非常に大きくなっています。今夜は、9世紀から10世紀の学者、ファーラービーについてお話することにいたしましょう。
アブーナスル・ファーラービーは西暦870年ごろ、ファーラーブという村で生まれました。彼の正確な出生地については、歴史家の間で意見が分かれています。一部の人は、現在のカザフスタン南部オトラル近郊のファーラーブであるとしており、また中には、現在のアフガニスタンの一部で、当時はイランの大ホラーサーン地方とされていたファーリヤーブであるとする人もいます。しかし、イランや外国の学者や歴史家はいずれも、ファーラービーは間違いなくイラン人であり、両親共にイラン系であったと強調しています。なお、ファーラービーの父親は、イランの軍人だったとされています。
15世紀のアラブ人法学者イブン・アビー・ウダイバの歴史書によると、ファーラービーの家系はパールス人(即ちペルシャ系)とされています。10世紀の学者イブン・ナディームや、13世紀後半ごろのアッシャフルーズィーも、ファーラービーをイラン人であるとしています。さらに、ファーラービーはペルシャ語やペルシャ語系の言語であるソグド語の著作での多くの著作に加え、ギリシャ語による著作でも知られていますが、トルコ語の語彙は彼の著作の中には見られません。研究者によると、彼が一部の著作においてソグド語を使っていたのは、彼の母語、そしてファーラーブ住民の言語がソグド語だったためである、ということです。
ファーラービーが純粋なペルシャ系であったことは、ほかの資料においても確認されています。これについて、オックスフォード大学のボスワース教授は、次のように述べています。
「ファーラービーやビールーニー、イブン・スィーナーのような偉大な人物は、トルコ寄りの学者によってトルコ系であるとされている。初めてファーラービーをトルコ系の人物だとした学者は、イブン・ハッラカーンだった」イラン百科事典である『エンサイクロペディア・イラニカ』では、イブン・ハッラカーンが批判されており、彼以前にアラブ人学者のイブン・アビー・ウダイバが、ファーラービーをペルシャ系だったとしたことから、イブン・ハッラカーンはファーラービーをトルコ系だとする根拠を捏造したと述べています。また、イブン・ハッラカーンはファーラービーという名字の前に、トルコ人であることを示すアルトルクという名前を加え、アルトルク・ファーラービーであるとしていますが、ファーラービーはトルコ人の血統とは何の関係もありません。
20世紀のイランの優れた言語学者デホダーは、ペルシャ語文学を専門とするバディーオッザマーン・フォルーザーンファル教授の話として、次のように述べています。
「ファーラービーの生涯に関して説明する上で、彼の子供時代や若いころの実態について示す内容は、書物には存在しない。13世紀の文学者イブン・アビー・ウサイビアは、彼に関する2つの矛盾した説を伝えている。一つは、ファーラービーは当初、現在のシリアに当たるダマスカスの庭園の警備員を勤めていたという説と、若いころは法官として務めていたが、ほかの学問に触れたことから法学をやめ、法学以外の学問に集中するようになった、という説である」ファーラービーは、若年時代に哲学の研究や修得に興味があり、指導者や教師を求めて学問所を渡り歩き、学問以外何も求めなかった、とされています。
ファーラービーは40歳ごろ、学問の習得のためにイラクのバグダッドに赴いた、と伝えられています。彼はその当時、文法学、イスラム法学、ハディース学を修得していましたが、論理学と哲学に関してはそれほどの知識はありませんでした。彼はバグダッドに着いてから、マッタイー・ブン・ユースフという人物の下でこの2つの学問を学んでいます。ファーラービーはその後、現在のトルコ南東部の町ハッラーンに移動し、ユーハナ・ビン・ヘイラーンという人物に師事しました。彼は、初めからその絶え間ない努力と聡明さにより、教えられた内容のすべてをよい形で修得しました。彼はまもなく哲学者、学者として名声を博し、バグダッドに帰還したときは、彼の周りには多くの弟子が集まりました。そうした彼の弟子の1人には、キリスト教徒の哲学者ヤフヤー・ブン・アディがいます。
ファーラービーは941年、シリアのダマスカスに赴き、同国のもう1つの町アレッポのハムダーン朝の為政者サイフウッダウラに仕え、この王朝の宮廷内の学者となりました。ファーラービーは950年、ダマスカス近郊において80歳で死去しました。多くの人々は、次のような話を信じています。ファーラービーがダマスカスから現在の被占領地パレスチナ南部のアシュケロンに移動中、盗賊に遭遇した際、「乗り物、武器、服、金品はすべて持っていていい、だが私には関わるな」と告げたところ、盗賊はこれを受け入れず、彼を殺害しようとし、この中でファーラービーはやむなく彼らとの戦闘に立ち向かい、殺害されたということです。シリアの為政者たちはこの出来事を知り、彼をダマスカスで手厚く葬り、この盗賊たちを彼の墓の前で絞首刑にしたということです。
イスラムの歴史家は、ファーラービーは禁欲的であり、考え深い人物で、神秘主義者の質素な服を着て生活し、研究と執筆以外に関心を持たなかったと考えています。また、世俗的な物事を嫌悪し、アレッポの為政者サイフウッダウラが、彼に多くの報酬を与えようとしていたにもかかわらず、彼は一日あたりわずか4ディナールで満足していたということです。
ファーラービーは、様々な学問に精通しており、当時のあらゆる学問に関する著作を残しました。彼の著作からは、彼が数学、錬金術、天文学、兵法、音楽、神学、自然科学、民法やイスラム法学、論理学に非常に精通していたことが明らかにされています。イスラム初期の哲学者キンディーは、後進のための道を切り開いた最初のイスラム哲学者として知られていますが、実際、キンディーは哲学における学派を生み出すことは出来ず、議論されていた問題をまとめたにとどまりました。しかし、ファーラービーは完全な1つの学派を創設したのです。
ファーラービーは、キンディーが始めた大きな仕事を確実に継承しました。ギリシャ語からアラビア語、シリア語に翻訳された哲学は、これらの言語との馴染みはありませんでした。かれは、アラビア語を哲学の世界に触れさせたのです。イランの著名な学者イブン・スィーナーは、ファーラービーを自分の師としており、哲学者のイブン・ルシュドやその他のアラブ・イスラム世界の為政者たちも、ファーラービーに大変な敬意を払っていました。このことは、ファーラービーが学者として最高の栄誉を受けていたとするイブン・スィーナーの言葉でも確認されています。彼は、「ファーラービーによるアリストテレス哲学の注釈を読んだが、40回読んでも内容が理解できなかった。市場で、形而上学に関するファーラービーのある著作に出会い、この本を読んだ後に形而上学の内容が分かり、大変嬉しくなった」と述べています。イスラム哲学の伝統では、第1の師としてのアリストテレスの次にファーラービーを位置づけ、彼を「第二の師」と呼んでいます。
ファーラービーは、ある意味で学問と哲学の最盛期といえる、イスラムの歴史と文化のあけぼの時代の人物であり、このことから彼は「第二の師」と呼ばれています。実際、彼は哲学を再生した人物であり、イスラム哲学の創始者なのです。イスラム世界で広がった哲学とその歴史は、ファーラービーの時代から、現在まで続いています。ファーラービーの時代である9世紀から、19世紀のイランの哲学者モッラー・サブゼヴァーリーの時代まで、世界の創造というテーマは、イスラム思想における最も重要なテーマでした。
ファーラービーはギリシャ哲学を完全に研究し、アリストテレスの影響を受けました。ファーラービーの思想において興味深いのは、彼の著作『有徳都市の住民が持つ見解の諸原理』の中に見られる理想都市論です。彼は、この著作の中で理想的な都市を描き、その中ではイスラム法が施行され、人々と為政者はイスラム法に基づいて関係を築く、としています。
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