ハーラズミー (1)
フワーリズミーとして知られるムハンマド・ビン・ムーサー・ハーラズミーは、アッバース時代のイランの歴史的な天文学者、数学者、哲学者、地理学者、歴史家です。彼の生没年について、正確なことはわかっていませんが、イスラム暦2世紀後半、即ち西暦801年以前に、現在の中央アジアにあたるハーラズムで生まれたと言われています。イブン・キトフィーとイブン・ナディームの2人のイスラム教徒の歴史家は、彼をハーラズム出身であるとしており、彼の呼び名もアラル海南部、現在のウズベキスタンのヒヴァにあたるハーラズムの出身であることを示しています。ハーラズミーは数学、特に代数学の分野における発見により、学術的な名声を獲得しました。中世の数世紀における数学者で、彼ほど影響力を持った学者は誰も存在しませんでした。このため、彼は代数学の父と呼ばれています。アメリカの歴史家ジョージ・サートゥンは、自著の中で時代を分類し、15世紀までの時代を「ハーラズミーの時代」と呼んでいます。
ハーラズミーの著作や研究成果は今も利用されており、また彼が記した代数学の本は、中世の時代に多くの有名な翻訳者によって翻訳されました。彼の最も優れた業績とは、代数方程式、二次方程式の計算における業績です。彼の著作『インドの数の計算法』がラテン語に翻訳されたことで、ヨーロッパの数字の表記法がローマ式からインド・アラビア式に変わることになりました。この方法は、今なおヨーロッパや世界のその他の地域に普及しています。また、ヨーロッパ人は代数という言葉を、そのままハーラズミーの本からとって「アルジェブラ」としており、また現代において命題の解法を指す「アルゴリズム」という言葉は、アラビア語でのハーラズミーの名前の表記、アル・ハーラズミーから取られています。彼はアッバース朝第7代カリフ・マームーンの時代に、マームーンが監督し現在のイラク・バグダッドにおける学者たちが集まる学術機関・バイトルヒクマのメンバーとなりました。
確かに、ハーラズミーは様々な学術分野に関する多くの著作を残しましたが、彼の生涯について述べられた記録のうち、信用できるものは少ないとされており、彼の学術生活に関する研究や、彼の作品に関するほとんどの内容は、ハーラズミーの人物像については述べていません。彼は、イスラム暦168年から184年ごろ、即ち西暦の8世紀末の20年間の間に生まれたとされていますが、期間に相当の開きがあります。また、彼の没年は846年がもっとも有力であるとされています。ハーラズミーは代数学の著作の冒頭で、自身をイスラム教に傾倒していた人物だとし、次のように記しています。「神が預言者ムハンマドを遣わした時代、人々とムハンマドとのつながりはなく、神を認識していなかった。預言者ムハンマドは人々を覚醒し、迷える人々を滅亡から救い出した。神は、ムハンマドとその一門に賛辞を送った」 ハーラズミーは、現在のイラン北東部から中央アジアにかけてのホラーサーン地方の一族の出身であり、アッバース朝二代目カリフ・マンスールによって、バグダッドの町が建設された際、ここに移住しています。
西暦749年に当たるイスラム暦132年、ウマイヤ朝が滅亡し、アッバース朝が出現した後、アッバース朝の勝利に大きな役割を果たしたイラン人は、初めて統治体制の中で重要な地位を手に入れました。イランの人々が数学や天文学、医学や哲学、そのほかの学問に注目していたことで、アッバース朝の一部のカリフはイラン人の影響を受け、少しづつ学者たちの支援に興味を示すようになりました。ハーラズミーが生まれる数年前の西暦776年には、ハールーン・アッラシードがアッバース朝の5代目カリフに就任しました。彼の時代には、昔から学術活動や学者への支援を行っていたイラン系のバルマク家という一族が、かつてないほどの権勢を誇るようになりました。バルマク家は中世ペルシャ語、ギリシャ語、または昔のシリアの人々が使用していた古いシリア語の学術書を翻訳し、哲学などの学術研究を進めるため、すべての力を注ぎ込んできました。
ハーラズミーが蔵書を使って研究を行うためにバグダッドのバイトルヒクマに来たのは、まさにこのときでした。当時、バイトルヒクマは図書館であるとともに、翻訳センター、学術的な研究機関でもあったのです。バイトルヒクマは、サーサーン朝時代のイランの町にあった、ジョンディーシャープール学術センターをモデルに創設されました。この研究機関はハールーン・アッラシードの時代に創設が始まり、そしてカリフ・マームーンの時代に完成しています。ハーラズミーは、マームーンの宮廷で大いに目をかけられていました。彼は宮廷内でもっとも優れた数学者であり、またバイトルヒクマの天文台の天文学者、そして顧問の1人とみなされています。マームーンは、インド関連の学術的業務を彼に委託しましたが、これは彼がインドの学問や習慣に精通していたことを示しています。彼はまた、天体図と地図を作成する責任者でもありました。彼はまた、おそらく地球の半径を測定に参加していた人々の1人であったと思われます。
ハーラズミーはバイトルヒクマに常勤するようになる前、インドに派遣され、インドの計算式を学んだ、といわれています。ハーラズミーはインドから帰った後、『インドの数の計算法』、『約分と消約の計算の書』の2つの著作を執筆しました。彼がインド人やギリシャ人が挙げた成果をまとめたことにより、代数計算の知識が伝えられ、これは後世の数学に大きな影響を与えることになりました。
ハーラズミーは、代数学の基盤を打ち立てた人物とされています。彼はイスラム暦3世紀、つまり9世紀から10世紀においてはじめて、現代的な意味での実学としてのあらゆる条件を兼ね備えた、代数学と名づけられた学問を体系化、集大成しました。彼はこの知識により、当時のあらゆる二次方程式を解き、これにより、より次数の高い方程式の計算が簡単になりました。フランスの東洋学者マールは、ハーラズミーについて次のように語っています。「今日、否定できない歴史的な事柄とは、ハーラズミーがヨーロッパの人々にとって、事実上の代数学の教師だったことである」。
バビロニア時代の粘土板やインドの古代の計算書などによると、インドやバビロニアの人々は特別な方法で二次方程式を解いていたものの、ただ指示に従って解法を提示していただけでした。つまりこの解法は、人々の日常生活の必要性を満たすために提示されていたもので、数学を広める目的はなく、学術的な推論や論拠に欠けていました。ハーラズミーのオリジナリティとは、彼が最初に当時知られていた二次方程式の計算のすべてを調べ、次にすべての段階における解法を示し、そして最終的に幾何学の助けを借りてこの解法を証明したことにあります。ハーラズミーが提示した範疇は、総合的に当時の新たな学問である「代数学」を生み出しました。ハーラズミーの作品のラテン語翻訳によって中世ヨーロッパで知られるようになったこの学問は、中世、そしてルネッサンスの時代にも、数学における大きな発展のきっかけとなりました。ハーラズミーの、『約分と消約の計算の書』の翻訳の存在を知っていた16世紀のタルタリア、カルダーノといったイタリアの数学者は、三次方程式の解決のため、このイランの数学者の方式を広め、こうして数学の普及のための新たな一歩を踏み出したのです。ハーラズミーの代数学の本は、数学における入門書であり、彼によると、その目的は人々が必要を満たす手段を整えることにあるとされています。実際、この本の第一章は、現代的な意味での代数幾何学に関する内容であると言えます。そして、この本の2章では、学術的な測量方法について、第3章では遺言の問題と遺産の分割について扱われています。イランの詩人、天文学者として有名なハイヤームは、自身の著作において代数学を計算から切り離し、この学問の独立化と発展に大きく貢献しました。
ラジオ日本語のユーチューブなどのソーシャルメディアもご覧ください。
https://www.youtube.com/channel/UCXfX6KY7mZURIhUWKnKmrEQ
https://twitter.com/parstodayj