セイエド・イスマーイール・ジョルジャーニー(2)
ジョルジャーニーが西暦1043年、現在のイラン北部の町ゴルガーンの付近で、カスピ海の沿岸に位置するジョルジャーンで生まれたことは、前回のこの時間でお話しました。彼は、この町で初等教育を受け、その後、さらに高等な学問を修めるため現在のトルクメニスタンに当たるマルヴ、現在のアフガニスタンにあるバルフ、イラン北東部のネイシャーブールを訪れ、当時の偉大な学者から学問を学びました。
ジョルジャーニーは医学のほか、薬学、獣医学、製薬、伝承学、哲学やイスラム法学にも精通し、これらの学問によって名声を獲得していました。また、前回の番組では、ジョルジャーニーが自著の医学書『ホラズムシャー法典』を謹呈した、ホラズムシャー朝のゴトブッディーン・ムハンマドと知己の関係にあり、また彼の教師だったということについてもお話しました。当時、ジョルジャーニーがマルヴに滞在していたことは確実とされています。
中央アジアの内陸湖・アラル海の南に位置するハーラズムは、アム川として知られるジェイホン川の河口付近にあり、昔から学問の中心として、多くのイスラム法学者や、芸術家、学者、文豪を輩出してきました。イスラム以前も、政治的には常に比較的独立していたこの地域の中心地は、996年までは名声を得ていましたが、この年、ハーラズムの中心地が現在のウズベキスタンのウルゲンチに移りました。この時期、イランはセルジューク朝時代に当たり、行政面ではハーラズムも一定期間、ホラーサーンの管轄下にありました。一方、1098年にゴトブッディーン・ムハンマドがセルジューク朝によりハーラズムの総督に任命され、ホラズムシャー朝の王としての比較的独立した統治が始まったことは、この地域の学術的、政治的、経済的な繁栄と全盛時代の始まりとされています。この相対的な独立状態は後に、学問や宗教の支援者だったゴトブッディーン・ムハンマドの努力により、完全な独立に発展しました。
このような状況の中で、ジョルジャーニーは1111年、70歳に達しており、ゴトブッディーン・ムハンマドの治世も14年目を迎えました。この年、ウルゲンチはハーラズムの中心地であり、ハーラズムという名前で知られており、ジョルジャーニーもこの町での滞在を選びました。ウルゲンチで、ジョルジャーニーはホラズムシャー朝の宮廷に登用され、ゴトブッディーン・ムハンマドの側近の1人、そして侍従医となりました。まさにこの時期に、彼はウルゲンチの人々が医学的知識を必要としていること、医学教育のための完全な典拠がないことに注目し、『ホラズムシャー宝典』を記したのです。この本は当時の医学における百科事典であり、イランの医学が新たな時代を迎えたあとの最も影響力ある本とみなされており、イランの医学を再興した人物として、ジョルジャーニーの名声が高まった最も重要な原因です。
『ホラズムシャー宝典』は当時、いくつかの点で注目に値する著作でした。まずはじめにこの本は、イブン・スィーナーが『医学典範』を記して以来、およそ100年ぶりの権威ある医学書だったという点です。第2に、この本は『医学典範』を基本にしており、ジョルジャーニー自身がイブン・スィーナーの弟子で彼の医学的手法の継承者とみなされていたものの、ジョルジャーニーの『ホラズムシャー宝典』は『医学典範』より完成度が高いという点です。なぜなら、ジョルジャーニーはこの本の中でラーズィーやアフワーズィーの医学的、臨床的な手段や思想、そして10世紀から11世紀にかけての最も偉大なイスラム教徒の眼科医とされるアリー・イブン・イーサーや、そのほかの偉大な医者の経験、さらには自身が学び得たものを記しているからです。これにより、『ホラズムシャー宝典』は『医学典範』よりも完全で内容の充実した著作となっています。この本の重要性は、研究者の考えによると、イスラム医学における偉大な進歩であるとみなされているところにあります。
『ホラズムシャー宝典』は初の完全な医学的典拠であり、ペルシャ語で記された医学辞典でした。この本の執筆により、イランの多くの医学者の手でペルシャ語の記述により明らかにされた、イランの医学の進歩の時代が頂点に達しました。限定的ではありましたが、医学者ヘラヴィーとアフヴィーニーにより、イランの人々が利用するための、ペルシャ語による医学や国民医学を再興するための動きが出始め、アフマド・ファラジやイブン・スィーナーにより続けられました。そして、ジョルジャーニーによって、『ホラズムシャー宝典』が記されたことで、この動きは全体的(普遍的)なものになりました。研究者によると、この本はペルシャ語の専門用語や表現を保持し、再興する上で大きな一歩となっただけでなく、その後の時代にペルシャ語による医学的な表現や情報が満載された文献の編纂の際の典拠となったということです。ジョルジャーニーは、この著作の執筆により、イブン・スィーナーが始めたイラク・バグダッドの重要な医学の拠点から、イランの医学を、学術的に完全に独立させるとともに、文化的な独立をも加えました。留意すべきことは、ジョルジャーニーが医療活動や教育活動、あるいは貴重な著作の執筆により、イランの医学の中心地を発展させる中で大きな役割を果たしたことです。
『ホラズムシャー宝典』は、内容が包括的であり、充実していることから、その執筆には長い時間を要しました。一方で、ジョルジャーニーはこの本の9巻目の結末において、執筆の終了が遅れた原因として、彼自身がホラズムシャー朝のバハーオッドウレの命により、ウルゲンチの薬剤店に勤務し、人々に歓迎され、彼らの要求に応えていたことのほか、この本を注意深く執筆したことを記しています。
9巻からなる『ホラズムシャー宝典』は、序文にあるジョルジャーニーの言葉によると、「薬学や製薬に関する部分を追加する意向はなかった」ということです。しかし、これに関する部分がない場合、この著作は不完全と見なされるという学者や要人たちの主張により、ジョルジャーニーは薬学と製薬に関する10巻目を追加しました。
『ホラズムシャー宝典』の執筆を行った期間は、1111年から、ゴトブッディーン・ムハンマドが死去した1127年の間とされています。ゴトブッディーン・ムハンマドの息子であり、軍司令官でもあったアラーオッドウレが、ジョルジャーニーに『ホラズムシャー宝典』の要約を執筆するよう頼んだのは、まだこの著作の編纂後間もない頃でした。このため、ペルシャ語によるこの著作の2巻本の要約がジョルジャーニーによって執筆されました。このことから、1127年までには少なくとも、医学分野でのジョルジャーニーの2つの主要な著作の執筆が行われていたことになります。
まさにその年、ゴトブッディーン・ムハンマドは即位から30年、ハーラズムを繁栄させた後、死去し、彼の息子アトスズが王位を継承しました。アトスズは父と同じように、文化的で、神秘主義思想を持つ人物で、学問や技術への熱意を持ち、イスラム教の拡大に努めていました。イルハン朝時代の歴史家ジュワイニーや13世紀の歴史家アウフィーによりますと、アトスズはペルシャ語でも詩を詠んでいたということです。彼はホラズムシャー朝の王座についた後、イスラム学に精通し、美しい歌を作るイマーム・マジドッディーンという人物を宰相に選びました。このため、ホラズムシャー朝の宮廷はそれまで以上に多くの学者が集まる場となり、このことにより、そしてジョルジャーニーが特別な注目を受けたこともあって、ジョルジャーニーはウルゲンチに残り、執筆活動を続けることになりました。
ジョルジャーニーの医学に関する大部分の著作、そして哲学や太陽や月の運行に関する著作、イブン・スィーナーの『医学典範』の翻訳、そして、遺言もこのウルゲンチ時代に記された可能性が高いと見られています。また、一方で、この時代、『ホラズムシャー宝典』がペルシャ語だったために、当時の学者からこの著作を人々が活用できないという批判を受けたため、ジョルジャーニーはこの著作をアラビア語に翻訳しました。このため、彼の著作はより多くの人に利用され、その結果、当時のイラン文化圏以外の世界にも彼の名声が広まることになりました。ジョルジャーニーはこの時期に、医学や哲学、神秘主義に関する本を執筆し、その題名は当時の一部の書物に出てきていましたが、現在では散逸してしまっています。
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