ナスィーロッディーン・トゥースィー(2)
ナスィーロッディーン・トゥースィーは1201年、イラン北東部の町トゥースに生まれました。彼は、コーランや学問の基礎、イスラム法学や原理を父の下で、その後おじのヌーロッディーン・ムハンマドの下で、イスラムの伝承・ハディースや論理学や哲学を学びました。 また少年期に、学問を修めるために、当時イスラム世界の学問の中心とみなされていたイラン北東部のネイシャーブールに赴き、当時の一般的な学問の全てにおいて傑出した存在となりました。モンゴルがホラーサーン地方に侵攻していた時期、トゥースィーはイスマーイール派の拠点に行き、多くの著作を記しました。モンゴルのフラグ・ハンはイランを攻撃し、イスマーイール派の統治を終わらせると、トゥースィーを召抱え、彼を事実上の宰相に選びました。
フラグはイスマーイール派の制圧後、アッバース朝の主要都市バグダッドを平定し、アッバース朝のカリフ制を滅ぼそうと考えるようになり、トゥースィーに相談しました。彼は大いに熟考したあと、「世界の状況や星の動きから、間もなくカリフは混乱に陥り、あなたはイラクを難なく征服できることが明らかにされている」と語りました。星占いを信じているフラグは、トゥースィーの言葉を信じ、もう一人の占星術師、ヘサームッディーンの反対にもかかわらず、バグダッドの平定に赴きました。最終的に西暦1258年にあたるイスラム暦656年、アッバース朝最後のカリフ、ムスタアスィムは3人の息子や高官とともに降伏し、処刑されました。
バグダッド平定後、トゥースィーはイラン北西部の町マラーゲで天文観測所の建設に携わりました。一部の歴史家は、この天文観測所の建設はトゥースィーのアイディアとイニシアチブによるものだったとして、「トゥースィーは論証により、天文観測所の建設が大変有益であるとフラグを説得した」と語っています。彼はモンゴル人の支配者に対して、「天文学では、もし天体の状況を知れば、一部の出来事が発生した際、無知な人々が抱く恐れを、あなたは抱くことはないとされている」と語りました。フラグは彼の言葉を聞き、天文観測所の建設にかかる莫大な費用にもかかわらず、この建設を許可し、トゥースィーはその建設を担当することになりました。
一方、一部の歴史家も、天文観測所の建設という考えは、モンゴル帝国の4代目皇帝のモンケによるものであって、フラグは彼の指示でイランを攻撃したとしています。そして、「モンケは非常に賢明な人物で、ユークリッド幾何学の一部の命題を解いていた」と語っています。彼はトゥースィーの名声を耳にしていたことから、フラグに対して、トゥースィーをモンゴルに派遣し、そこで天文観測所を建設するよう命じました。しかし、モンケは中国南部の占領を目論み、またフラグはイランに居てモンゴル帝国の首都から遠く離れ、自らもトゥースィーに関心を持っていたことから、イランでこの指示を果たすのが正しいと考えたのです。
天文観測所の建設に選ばれたのは、マラーゲの町の北西にある高い丘でした。トゥースィーの指示により、当時の有名な建築家アボルサアーダト・マラーゲイーが、この壮大な天文観測所の建設を担当しました。この観測所の建設に対して、王朝から豊富な支援金が拠出されたほか、トゥースィーには帝国全域からのワクフと呼ばれる、特定の資産を対象にした寄付が与えられ、彼は資金集めと必要な物資のマラーゲへの送付のため、各都市に役人を派遣しました。トゥースィー自身も、このワクフの視察のために、3回度に出ており、この中で観測所に必要な資材や書物を集め、マラーゲに送ったといわれています。彼はマラーゲにおける観測活動で、イルハン天文表を作成しています。
この天文図では、星に関する新たな測定が行われており、以前の天文学者が製作したものとは違うものとなっています。マラーゲの天文観測所では、多くの数学者や天文学者が活動を行っていました。彼らの中で主だった人物は4人で、トゥースィーはイルハン天文表の序文の中で、彼らの名をあげ、次のように語っています。「私は、フラグによりトゥースでの天文観測を命じられた。さらに、私はシリア・ダマスカスからはモウイドッディーン・アルズィーを、イラク北部・モスルからはファハロッディーン・マラーゲイーを、現在のグルジア・トビリシからはファハロッディーン・アフラーティ、テヘラン西方のガズヴィーンからはナジモッディーン・ダビーラーンなどの天文学における賢人たちを、それぞれ呼び出した。これらの人々は、マラーゲを天文観測所の建設地とし、天体観測に従事していた」。
マラーゲの天文観測所の特徴のひとつは、大きな図書館が併設されていることであり、40万冊の蔵書を所有していたとされています。またここでは教育活動も行われていました。トゥースィーは、学者や賢人たちを各地からこの大規模な教育機関に招聘していました。この学術機関では、天文学を基本とした理論や数学の教育が特別に注目されていました。トゥースィーは、専門(分野)の重要性に従い、哲学専門の学生には3ディルハム、医学生には2ディルハム、イスラム法学の学生には1ディルハム、ハディース学の学生には半ディルハムを1日当たり支給していました。これは13年間続けられました。しかし、天文観測所が完成しないうちに、フラグが死去し、息子で皇太子だったアバカが彼の後継者となりました。伝えられるところでは、アバカは当初は王位を継承することを承諾しませんでしたが、トゥースィーなどが働きかけた後、王位継承を受け入れ、トゥースィーは天文観測所の建設作業を継続した、ということです。トゥースィーは人生の最期の時まで、天文観測の業務に支障をきたすのを許さず、この観測所と図書館が衰退しないよう、大変な努力を行いました。
トゥースィーはアラビア語で、150本の論文や書簡を執筆しました。彼の学術的な影響力は大きく、その知識は幅広く、このためトゥースィーはイブン・スィーナーと並び称されたのです。もっともイブン・スィーナーが医学者だったのに対して、彼は数学者でした。このため、トゥースィーはこの分野で価値ある著作を残しました。ドイツの中東学者ブロッケルマンは著書の中で、「トゥースィーは数学と天文学において優れた業績を上げており、古い著書を修正したあと、翻訳、解説を行った」としています。彼はまた、三角法を独立した学問と見なした初の学者でもあります。彼は天文学に関して、類を見ない著作を記しました。彼の数学に関する著作は、彼が生きていた時代から現在まで、イスラム的な教育機関で、教科書の一部とされています。さらにその貴重な作品の一端は、他の言語に翻訳され、ヨーロッパの研究者たちがこの著作を使用してきました。
トゥースィーは『ナーセルの倫理書』の序文で、数学は4つの種類に分かれるとしています。一つは幾何学、二つ目は計算科学で、3つ目は天文学、4つ目は音楽としています。
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