12月 15, 2019 14:43 Asia/Tokyo
  • アリー・ブン・オスマーン・ホジュヴィーリー
    アリー・ブン・オスマーン・ホジュヴィーリー

今回はイランの神秘主義思想家、アリー・ブン・オスマーン・ホジュヴィーリーについてお話しすることにしましょう。

ホジュヴィーリーはイランとインドで高い名声と、大変多くの支持者を有した人物で、神秘主義を知っている人にはよく知られている人物です。彼はインドではダーター・ガンジバフシュと呼ばれていました。彼の廟は現在のパキスタンのラホールにあり、巡礼地となっています。

アボルハサン・アリー・ブン・ホジュヴィーリーは、おそらく、10世紀から11世紀にかけてのガズナ朝の王、マフムードの時代、現在のアフガニスタンにあるガズナのホジュヴィールという場所に生まれました。どの資料にも、彼が生まれた年については記されておらず、推定で991年から1011年の間とされています。

彼の父については、学者だと伝えられており、当時ガズナは治安がよいことで知られており、彼の父は尊敬されていた人物だったということです。彼の母についても、敬虔で慎み深い人物だったとされています。彼のおじはタージオルオウリヤーという神秘主義者で、彼の廟はガズナの巡礼地となっています。

一部の研究者は、ホジュヴィーリーは生涯独身だったとしていますが、彼は家族の要請により大変若くして結婚したものの、その後、妻が死亡した、と考える人もいます。また、この著作の中では、妻の死後から11年が経ったころ、あったこともない女性に魅了され、1年間は彼女への愛にとらわれていたとされています。しかし、最終的に、神は彼の心からその女性の思いを取り去り、正しい道へと導いたということです。

ホジュヴィーリーは、当時の学問のほとんどを学び、それらによく精通していました。彼は、コーラン、ハディース、解釈学、イスラム法学などをガズナで学び、その後、若いうちにガズナから出て、長期にわたる旅をはじめました。ガズナを離れるきっかけとなった、この旅の理由について、様々な事柄が言われています。

一部の研究者は、ホジュヴィーリーの父がガズナ朝の関係者だったことから、ガズナ朝の王マスウードが殺害された後の混乱により、安全を守るためにガズナから避難し移住したとしています。また、一部の研究者は、ホジュヴィーリーは若い頃から学問的な地位や名声を持っており、宗派間の対立が彼の移住の要因だとしています。また一部は、現在のトルクメニスタンのマルヴやイランのサラフス、ネイシャーブール、トゥース、アフガニスタンのヘラートやそのほかの魅力ある文化的な中心地を見て、当時の偉大な学者に会うために、故郷を離れたと考えています。

イランの名声、世界的な栄誉は、IRIB国際放送ラジオ日本語でお届けしています。今夜は11世紀の神秘主義思想家のホジュヴィーリーについてお話ししています。

ホジュヴィーリーは、正式な神秘主義の修行者ではありませんでした。彼は旅をする神秘主義者であり、この旅により、多くの町を見て、多くの学問の大家と交流しました。しばしば、ただ会って話をするだけのこともありました。一部の師に対しては弟子入りするようになり、教えを受け、しばしば、その師のために町から町へと行くほど深い話をしました。これは、ホジュヴィーリーの死まで続けられました。

ホジュヴィーリーは大いに愛し、その状況を懸念し、その繁栄を祈っていたガズナを離れ、旅を始めたのです。現代イランのペルシャ語文学研究者のマフムード・アーべディー博士は、彼の旅は1048年以降に行われたとしています。彼がもし1048年以前にネイシャーブールとトゥースに行っていたのであれば、高名な神秘主義者であるアブサイード・アボルヘイルに会っていたと考えています。しかし、彼の著作から、これがかなわなかったことがわかっています。

ホジュヴィーリーはその後、イラクやイラン中部に行き、その地で過ごし、それから中央アジアに向かいました。彼はフェルガナ地方の東、現在のカザフスタンに当たる場所に赴いたとされています。そして、バーブ・オマルという、当時の神秘主義思想の大家と会い、一時期この人物の元に弟子入りしていました。

そして、現在のトルクメニスタンにあるマルヴに戻り、高名な神秘主義思想家だったアフマド・ナッジャール・サマルカンディの元に弟子入りしました。彼はまだ若かったので、この神秘主義思想家は彼に忠告を与えました。その後、イラン北東部のネイシャーブールとトゥースに行き、アボルガーセム・ゴシーリーなどの神秘主義の大家に弟子入りしました。

ホジュヴィーリーの廟

ホジュヴィーリーがネイシャーブールとトゥースに入った時期は、1048年以降のことで、この年は先述のアボルヘイルが死去した年でした。このとき、ホジュヴィーリーはアボルヘイルの教えを受けるために来ていた、レバノン在住のアボルファズル・ホッタリーという人物と知り合いました。

ホジュヴィーリーはこの人物と知り合ったことで、彼の教団に属するようになり、多くの事柄を見聞きしました。その一部は、『隠されたるものの開示』という著書の中に記されています。ホッタリーはホジュヴィーリーの師であり、現在のシリア・ダマスカスでホジュヴィーリーに見取られて死去しました。

その後、ホジュヴィーリーは再びイラン北東部のホラーサーン地方に戻りました。このとき、ネイシャーブールやトゥースに滞在した期間は以前に比べて長かったものの、心が静まることはなく、再びガズナとマルヴに行き、最終的にはイラン東部に戻りました。

ホジュヴィーリーの旅の終着点はラホールでした。アーベディー博士は次のように語っています。

「ラホールはインドとホラーサーンの境に位置する都市で、彼はそこで『隠されたるものの開示』を執筆、完成させた。もう一方では、彼は一部の本をガズナで執筆していたが、そこでは『隠されたるものの開示』を編纂、完成することはできなかった。」

 

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