4月 06, 2020 18:30 Asia/Tokyo

コーラン第32章サジダ章叩頭(こうとう) 第10節~第14節

                                                               慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

第10節

「彼らは言った。『[死後に]地上で[腐り、]なくなったとき、私たちは再び新しく創造されるのか?』 

恐らく、彼らは主との面会を信じないだろう。」(32:10)

(10) وَقَالُوا أَئِذَا ضَلَلْنَا فِی الأرْضِ أَئِنَّا لَفِی خَلْقٍ جَدِیدٍ بَلْ هُمْ بِلِقَاءِ رَبِّهِمْ کَافِرُونَ

 

第11節

「言え、『あなた方のもとに死の天使たちが送られ、あなた方の命を奪い、その後、あなた方は主のもとへと帰される』」(32:11)

(11) قُلْ یَتَوَفَّاکُمْ مَلَکُ الْمَوْتِ الَّذِی وُکِّلَ بِکُمْ ثُمَّ إِلَى رَبِّکُمْ تُرْجَعُونَ

 

前回の番組では、人間がどのように創造されたかについてお話しました。この2つの節は、人間の死に触れ、次のように語っています。「最後の審判を否定する人たちは言う。『人間が死に、土の中に埋められたとき、体の全ての部分は腐って滅びる。こうしてその人は跡形もなくなるため、最後の審判の日に召集され、再び生を得ることはあり得ないだろう』」

 

神はそれに対して次のように答えています。「土の中に入り、腐るのは、人間の肉体だけである。だが、我々が生とともに与えた人間の魂は、死が訪れたとき、天使たちによって奪われる。この魂は最後の審判で、現世と同じように肉体に加えられる。こうして再び蘇った人間は、神との面会の場に立たされる」

 

第10節と11節の教え

  • 復活は肉体的なものです。実際、多神教徒が疑い、否定していたのは、肉体的な復活でした。
  • 人間の真理はその人の魂であって、肉体ではありません。そのため、手や足などの肉体の一部がなくなっても、人間は自分の真理の一部がなくなった、あるいは、アイデンティティを失ったと感じることはありません。

 

第12節

「また、汝が見たらどうだろうか。罪を犯した人が主の前に頭を垂れ、『主よ、[あなたが約束されたものを]見て聞きました。だから私たちを[地上へと]お戻しください。そうすれば、相応しいことを行います』と言う姿を」(32:12)

 (12)وَلَوْ تَرَى إِذِ الْمُجْرِمُونَ نَاکِسُو رُءُوسِهِمْ عِنْدَ رَبِّهِمْ رَبَّنَا أَبْصَرْنَا وَسَمِعْنَا فَارْجِعْنَا نَعْمَلْ صَالِحًا إِنَّا مُوقِنُونَ

 

前の節は、多神教徒の最後の審判の否定について述べていました。この節は、預言者と敬虔な人間に次のように語りかけています。「汝が見ていたらよかったのに。罪を犯した人たちが、最後の審判で頭を垂れ、地上に戻りたいと言っているのを。しかし彼らの望みがかなえられることはない。彼らは天国と地獄を目にし、地獄の人々の嘆きを聞いた上で、次のように宣言する。『神よ、私たちは最後の審判を否定しません。なぜなら、この目で見て確かめたからです』 しかし、時はすでに遅く、今さらそれを認めたからといって、彼らの状態の役には立たないのである」

 

彼らは生きていたとき、神の預言者たちの言葉を聞き、彼らの奇跡を目にしたはずです。それなのに、彼らはそれらのすべてを見なかったこと、聞かなかったことにし、全く気にとめませんでした。そしてその言葉が正しいとは考えなかったのです。しかし、彼らには、預言者たちの言葉や論理を否定する根拠があったのでしょうか?それとも、自分たちの本能的な欲望を満たすために彼らを否定し、自由に楽しく暮らせると考えたのでしょうか?

 

第12節の教え

  • 最後の審判は、罪を犯した人や反抗者が頭を垂れ、後悔する日です。彼らは現世で敬虔な人々を侮辱し、愚かな人間だと言っていました。
  • 敬虔な人々は鋭い視点を持っており、現世において、最後の審判と天国、地獄を信じています。しかし、不信心者は最後の審判でようやく、目と耳が開き、確信を得ます。最後の審判は、真理が明らかになり、目や耳が開く日です。
  • 最後の審判で役に立ち、救済につながるのは、現世でのよい行いです。

 

第13節

「また、もし我々が望んでいれば、誰かの導きを[強制的に]その人に与えていただろう。[だが我々は全ての人に自由な意志を与えて創造し、よい道、あるいは悪い道を選べるようにした。]私の[約束の]言葉は絶対で、地獄を[罪を犯した]ジン・精霊や人間で一杯にするだろう。」(32:13)

(13)وَلَوْ شِئْنَا لآتَیْنَا کُلَّ نَفْسٍ هُدَاهَا وَلَکِنْ حَقَّ الْقَوْلُ مِنِّی لأمْلأنَّ جَهَنَّمَ مِنَ الْجِنَّةِ وَالنَّاسِ أَجْمَعِینَ 

 

第14節 

 「そこで、今日の会見を忘れていたために[責め苦を]味わうがよい。我々もあなた方を忘れた。永遠の責め苦を味わいなさい、あなたたちが行ってきたことのために。」(32:14)

(14)فَذُوقُوا بِمَا نَسِيتُمْ لِقَاءَ يَوْمِكُمْ هَٰذَا إِنَّا نَسِينَاكُمْ ۖ وَذُوقُوا عَذَابَ الْخُلْدِ بِمَا كُنْتُمْ تَعْمَلُونَ

 

この2つの節は、導きが自由な意志によるものだという特徴を強調し、次のように語っています。「神は、預言者や天啓の書、理性など、導きの手段となるものを全ての人間に与えている。人間は、それを受け入れるのも、受け入れないのも自由である。神と神の使徒たちは、人々に信仰の受け入れを強制しない。とはいえ当然のことながら、誰でも神の導きを受け入れない者は道に迷い、逸脱した道を歩むことになる。その結末は地獄である」

 

この点から、神の預言者たちは、勉強を生徒に完全に教えますが、それを覚えることを強制しない教師と同じです。怠けた生徒は、一年の終わりに落第し、現世の生活において多くの特典を奪われます。

 

一部の人々は次のように語っています。「慈悲深い神が、自らの僕たちを業火の中で焼くなどということが、どうしてあるだろうか?」 この2つの節は、このような誤った解釈を否定し、次のように語っています。「神の慈悲は、僕が自分の手で神の慈悲を遠ざけるようなことをしない限り、与えられる。この慈悲は、罪を犯した僕が、自分の行いを悔い改める限り、僕に与えられる。神は寛容で慈悲深い方だが、常に罪や圧制、腐敗を行い、罪を改めようとしない人たちは、慈悲を受け取り、責め苦から解放されるためのきっかけを手放している」

 

このような人々は、恐ろしい断崖絶壁に立っている人のようなものです。そこは危険だと他人にいくら忠告されても耳を貸さずに誤った道を歩み続け、こうしてがけの下に落ちてしまうのです。

 

第13節~14節の教え

  • 神の導きの受け入れは強制されるものではなく、自分の意志で決められます。強制的な信仰に価値はありません。
  • 神の大きな慈悲は、罪を犯した人や圧制者に対する神の怒りや責め苦を防ぐものではありません。
  • 神はいかなるときも、僕のことを忘れることはありません。ただし、僕が犯罪を繰り返し、その行いで神に自分のことを忘れさせた場合は例外です。
  • 復活を忘れることは、罪や悪い行いの源であり、厳しい責め苦を受ける原因となります。