4月 18, 2016 20:09 Asia/Tokyo
  • アケメネス朝時代の女性の服装

今回の番組では、アケメネス朝時代の女性の服装についてお話しましょう。

イランは歴史の中で、常に女性を大切にしてきました。そのため、女性が孤立したことはありません。イランの偉大な叙事詩人フェルドウスィーの詩では、女性はあらゆる場面に登場し、昔から、スポーツや狩猟、格闘技などに参加していました。

アケメネス朝時代、王妃も皇帝と共に、各国の代表団を迎え入れる際には冠を被っていました。皇太后が生きている間、王妃の役割は少ないものでした。皇帝は儀式の際、母親に向かって頭を垂れた後、その国の最高位の場所に座っていました。宮廷の女性たちの衣服は、男性たちと同じように、多くが宝石で装飾され、そのデザインは、ゾロアスター教の最高神アフラマズダから取られていました。

アケメネス朝時代の女性たちの服飾を見てみると、この頃、イランでチャードルと呼ばれる全身を覆う被り物が初めて見られた時代であることがわかります。もちろん、宮廷の身分の高い女性たちは、チャードルを利用していました。この頃から残っている一部の絵画には、興味深い服装が見られます。彼女たちのブラウスはシンプルで丈が長く、袖が短くてプリーツが入っていました。また、馬に乗った女性たちが描かれたものもあります。彼女たちは長方形のチャードルを被り、その下にブラウスと丈の長いスカート、その下にさらに足首まで届く長いシャツを着ていました。

研究によれば、イランの女性たちは、この土地の最初のアーリア人の住民であったメディア王国の時代から、足首までのズボン、チャードル、長いショールやシャツといった完全な服装を身に着けていました。岩のレリーフに残る絵は、パールス人の男女の服装の類似性を物語っています。パールス人の女性たちは、王妃が身に着けるのと似た服以外にも、シンプルで丈が長く、袖が短いシャツを身につけ、ふさ飾りのついたスカートは膝下までありました。

アケメネス朝時代の女性たちは、編み物に注目しており、類まれなる衣服を作り出していました。アレクサンダー大王は、すべてのギリシャ人にイラン式の服装を身につけるよう命じ、アレクサンダー大王自身も、イラン式の服装を利用していました。イランの服飾博物館の創設者で研究者のバドル博士は、次のように語っています。

「クセノポンをはじめとする歴史家の記述によれば、アケメネス朝のキュロス王は、メディア人の服装をモデルとし、側近たちにもそのような服装をするよう命じていた。この服装の最も重要な特徴は、身体の欠点を隠すことにあり、体つきをよく見せていた。とはいえ、パールス人の服装から分かるのは、彼らが露出の多さは礼儀に反すると見なしていたことである」

バドル博士はこのように続けています。「アケメネス朝の人々は、織物業が盛んであったこと、また羊毛や絹といった天然の素材に恵まれていたため、自宅で作った布でショールやスカートを作り、それを身に着けていた。男女の服装の唯一の違いは、女性が服の上に着ていた、丈が短い丸い形のチャードルである。一部の遺物では、このチャードルが長方形をしているように見える」

バドル博士はさらに、このように語っています。「この時代、貴族の女性たちは、さまざまな芸術を学んでおり、手工芸や色の組み合わせ、衣服やその多様性を非常に重視していた。紫は男性に注目される重要な色であり、尊重されていた。最も重要な贈り物のひとつが紫色の衣服であり、アケメネス朝の王たちは、宗教的な儀式や統治に関する儀式の際に、紫色の衣服を着ていた。歴史家によれば、一般の人々や兵士たちは、黄色、オレンジ、茶色、赤、青などの衣服を身に着けていた」

1世紀のローマの歴史家、クルチウス・ルフスは、古代イランという本の中で、女性によって織られたイラン製の布について触れています。ヘロドトスも、クセルクセス1世の妻のアメストリスが、自ら、王の身につける貴重な布を織ったと記しており、これに関する物語を語っています。恐らく、これらの布は金の糸が織り込まれた絹でできており、その例が、シューシュやタフテジャムシードといった古代遺産で発見されています。これらの布は、紫、オレンジ、茶色をしており、宗教的なシンボルである青いハスの花で装飾されています。

パリのルーブル美術館にある美しい印章には、アケメネス朝時代の女性のチャードル、冠、服装を身につけた王妃が、王座に寄りかかり、足を四角い台座に乗せている様子が描かれています。その前には髪を三つ編みに結った帽子を被っていない召使が立っており、鳥を持ってきています。この中では、冠の下に美しい髪を見せた別の女性が見られます。この女性は小さなかばんを手にしています。

イランの文明の最も古い痕跡は、南シベリアのアルタイ山中パジリク渓谷で発見されました。この地域からは、4体のミイラ、男性や馬の骨、タフテジャムシードで発見された模様と似た、ライオンが連なるデザインの布や衣服が発見されています。また、数枚のじゅうたんも発見されました。その中でも最も驚くべきものはパジリクじゅうたんです。これは紀元前5世紀のものと見られています。

パジリクじゅうたんは、その繊細さだけでなく、色の点でもすばらしいものです。時の経過によって損なわれてはいるものの、そこにはスカイブルー、赤、黄、緑といった色が使われています。このじゅうたんに描かれている馬に乗った人々は、クセルクセス1世の王座をタフテジャムシードに運んでおり、28人います。

ここで発見されたものの中には、馬に載せる鞍や手織りのじゅうたんがあります。それらも決して、パジリクじゅうたんの美しさに劣りません。そのうちのひとつには、宗教儀式の様子が描かれており、その儀式には4人の女性が参加しています。2人の王妃と、見張り番と見られる2人の女性です。彼女たちはアケメネス朝の服装をしており、王妃たちは右手を上げており、後に続く人たちよりも背が高くなっていますが、それは他の人たちよりも位が高いことを示しています。なぜなら、4人とも同じ服と冠を身に着けており、唯一の違いは、2人の王妃の冠が、別の2人のものとは異なり、髪留めがついていることです。

アケメネス朝の女性たちの衣服は、社会的な状況を考慮した上で、王妃と召使の2種類に分けられます。王妃はプリーツの入った丈の短いチャードルを身につけています。ブラウスはシンプルで、袖は広く、完全に服の上にぶら下がったような格好になっています。

パールス人の社会階層において、最も低い身分にあったのが召使たちでした。この階層の女性たちの衣服はシンプルで丈が長く、多くはその上にシンプルなベルトをしていました。