4月 18, 2016 20:57 Asia/Tokyo
  • パルミラ、砂漠の真珠の惨状

ISISの支配下にあったパルミラは、最近シリア軍の大規模な進攻により、再び解放されました。

ISISのパルミラ占領期、数百人の市民がISISの犯罪の犠牲になったほか、多くの歴史的な建造物が破壊されました。

パルミラは2000年前の繁栄の痕跡を最近までとどめていましたが、ISISの占領により、その多くの建造物が失われました。ユネスコやそのほかの多くの国際機関は、パルミラの陥落前、シリア人の殺害に対しては沈黙していましたが、この歴史的都市の陥落については懸念していました。確かにこの懸念の表明は、単にこの町の歴史的な建造物のためのものだったのです。

ISISはパルミラ占領期、この古代都市の劇場を公開処刑の場として利用し、シリアの著名な考古学者ハレド・アルアサド氏を殺害しました。彼らはまた、2000年前のバール・シャミン神殿やベル神殿を破壊し、凱旋門を爆破しました。それだけでなく、古代のタワー状の墓を破壊したのです。

シリアの内戦が始まる前までは、観光業はシリアの経済の柱の一つとみなされていました。また、大変多くの人々が観光関連の仕事の従事しており、内戦前は毎年15万人以上の人々がパルミラを訪れていました。しかし、この流血の戦争の数年間、シリアの観光収入は0となり、観光客が訪れることがなくなりました。

シリアのテロリストによる古代遺跡の破壊の激化に関する事実は、大変苦いものです。パルミラだけでなく、ダマスカス、アレッポ、ボスラ、シリア北部の古い村落などは、このような被害を受けている地域の一部でしょう。ダマスカスのゼイナブ聖廟に対する武装組織の繰り返しの攻撃や、そのほかのイスラム教徒が尊重している建造物の破壊も、宗教に反するシリアのテロリストの活動のひとつであり、それは現在も続いています。

この期間、ISISはオヴェイセ・ガラニー、アンマール・イブン・ヤーセル、ゲイス・ナハイーの預言者ムハンマドの教友にまつわるドームやミナレット、柵などを破壊し、また彼ら3人の墓を完全に粉々に砕きました。これに加え、反体制派武装組織のシリア自由軍も、ダマスカスにある預言者ムハンマドの教友のハジャル・ブン・オダイーの墓を破壊しました。

シリア内戦が始まってまもなく、ヨーロッパの安全保障関係者は、シリアはアルカイダを支持するテロリストの渡航先になると警告しました。これらの関係者は、また、テロリストとテロの渡航は、一部のイギリス人の間の重要な渡航活動となり、これはこの地域の安全をかつてないほどに脅かしているとしています。確かに、これらの人物や組織はその宗教的な動機を明らかにしていますが、実際には、宗教や信仰などは存在せず、さまざまな形で、イスラムや人道的な原則を守っていないことを示しています。

たとえば、シリアのISISの幹部の一人は、2年前、イスラム以後に建設されたすべてのキリスト教の教会は破壊されることになると表明しました。これは彼らの宗教的な狂信を示すだけでなく、宗教的な対立を生じさせ、ほかの宗教の信者との平和的な関係が崩れるよう求めていたこと、そして現在も求めていることを示しています。なぜなら天啓の宗教の礼拝所の破壊は、預言者ムハンマドの手段ではなかったからです。

シリアの首都ダマスカスは、世界でも最も古い都市として、紀元前10世紀から8世紀にかけての時代から、常に人々が居住していた地域として知られています。このため、世界最初の首都と呼ばれています。この都市は、最も古い人類の文明が出現し、拡大した場所なのです。この都市は、さまざまな時代に、中心都市として、あるいは王朝の統治体制の中心とされてきました。

西暦636年、ダマスカスがイスラム世界の首都となった後は、イスラム世界の最も重要な都市に変わり、短期間で、ウマイヤ朝の中心都市になり、その繁栄のきわみに達しました。この地は多くの預言者や学者、思想家、詩人、宗教的偉人を生み出し、彼らは文化的、学術的、宗教的な発展や、さまざまな宗教の拡大の中で、多大な努力を行ってきました。

パルミラはシリアの歴史的都市であり、パルミラ遺跡は中部のホムス州に位置しています。シリアはヘレニズム時代、そしてビザンツ時代、最も重要な文明の中心のひとつであり、その歴史地区には、驚くべき美しい建造物が存在し、この国の歴史的なアイデンティティの一部とみなされています。パルミラの住民構成は、アラム人、アムル人、アラブ人や少数派のユダヤ人などで占められています。

パルミラの古代遺跡の近くには、パルミラ、あるいはタドモルの町があります。この地は、アルサケス朝パルティアの文化、地元パルミラの文化、ギリシャ文化が混合していたシリア東部の都市です。この歴史的な都市は砂漠の真珠として知られており、世界で最も重要な遺跡として、ユネスコの世界遺産に登録されています。

パルミラの古代遺跡は、紀元1世紀から2世紀にさかのぼります。パルミラは古代においては、世界の最も重要な文化的中心地のひとつでした。この都市遺跡は、この時代の建築芸術によって形成されており、ギリシャ・ローマの技術が地元の伝統や古代イランの影響とあいまっていました。この歴史的なエリアには、1000以上の柱と、500以上の墓がある巨大な墓場があります。

パルミラの町は、シリア砂漠まで拡大したパルティアが建設しました。しかし、すぐにローマの攻撃を受けたことで、古代イランの領土から切り離され、ローマの支配下に置かれました。その後、この都市は、女王ゼノビアのパルミラ王国の首都となりました。パルミラは金色の柱がある美しい街で、詩的な雰囲気を持っていました。この町は、紀元前1世紀の時代、アジアとヨーロッパの重要な商業中継地のひとつとみなされていました。最終的には、274年、ローマ帝国によって破壊されました。

パルミラの古代都市は、様々な部分で構成されています。パルミラの城塞、ハドリアヌス門、四つの面のある門のテトラピオン、壮大な墓やバール・シャミン神殿などです。2015年8月23日、シリア古代遺産庁は、ISISが爆発物を使用して、神殿を内側から破壊し、神殿の周囲の柱を崩壊させたとしました。バール・シャミン神殿は1世紀にさかのぼる古い神殿です。

パルミラはギリシャやローマの町の影響を強く受けました。高い柱のある広場や劇場などは、パルミラにも見られるギリシャやローマの町の特徴です。この町の劇場では、東方の演劇や、猛獣の戦い、剣闘士の戦いなどが催されていました。ISISの占領時代、このテロ組織はこの劇場を集団の公開処刑の場に利用していました。凱旋門も、およそ2000年の歴史を持っていましたが、2015年10月5日、ISISによって破壊されました。

パルミラがISISの占領下に入ったときから、歴史的な建造物や芸術作品の破壊、歴史家や考古学者の殺害が、歴史や文化などに対する戦争における、この組織の戦略となりました。2015年7月にも、ISISは古代のライオンの像を含む、6つの像を破壊しました。シリア文化遺産庁のアブドルカリーム局長は、この後、「この像はおそらく武装衝突による被害を回避するために鉄の板や砂袋によって覆われていたが、ISISはそれらを取り除き破壊した」と表明しました。専門家はISISのこの行動は、パルミラの文化遺産に対する最大の犯罪だとしました。

シリア軍は2016年3月27日、パルミラを再び取り戻し、地雷や爆弾の撤去作業と、テロリスト掃討作戦を開始しました。しかし、残念ながら、この都市から届いた写真は、ほとんどの建造物が破壊されていることを伝えています。この砂漠の真珠の輝きは、過去に比べて、くすんだものとなっているのです。

 

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