May 01, 2016 16:43 Asia/Tokyo
  • 神の性質(2)

今回の番組では先週に引き続き、神の性質についてお話しすることにいたしましょう。

創造主であること、創造という行為は、神の性質の一つと見なされています。これは神だけが生命の世界を創造し、神以外に創造主はいないことを意味しています。とはいえ、創造するという言葉は人間が芸術作品などを生み出すときにも使われます。しかしながら、人間の中の革新と創造に向け必要な下地を整えるのは神であることに注目を寄せるべきでしょう。つまり人間は神から授けられた能力を用いて、新たな作業を行い、作品を創造することができるのに対し、神の創造はその神自体から生まれるもので、神の性質を超えた原因に結びついていません。コーラン第13章ラアド章、雷電、第16節の最後には次のようにあります。「言え、神はすべてのものの創造者、彼は勝利した唯一の存在である」

この節によれば、神は生命の衣をまとったあらゆるものの創造主です。彼だけが創造物を出現させ、彼らに生命を与えることができます。またもう一つの点は、世界の存在物は常に神を必要としており、どんな存在物も神を必要としない状況にはないということです。例えば、自らの出現のために神を必要している人間は、この世に生まれた後も、神を必要としています。人間の神への必要性は、衣食住に制限されません、それどころか人間の存在に結びついているすべてのもののために神を必要としています。なぜなら人間が、人生、健康、安全、思考力、知力など物質的、精神的に有しているものはすべて、神からのものであり、神の意志によって人間に与えられているものだからです。それゆえ、人間はすべての事柄において、人間を創った神を必要としているのです。

神の創造に関して、神は万物の創造主であり、万物の多くの特徴や規則を授けたということを言っておく必要があるでしょう。神は太陽と月を創造し、それらに熱と光を与えました。その意志が働けば、間違いなくこの特徴はこれらから奪われることになるでしょう。

創造主であることは神の特徴ですが、これは人間の活動に権限があるということに矛盾するものではありません。なぜなら、私たちの力と知性、理解力、さらには私たちの権限や意志の自由もまたすべて神に属するものであるからです。神はすべての事柄、私たちの行動ですらも決定する一方で、私たちは行為者なのです。神はすべての動きの手段を創造し、私たちは善か悪かの道においてこの手段を用いているのです。

コーランには次のようにあります。

「これこそは万物を創造されたあなた方の神である。彼以外に神はいない。それなのにどうして(彼に)背を向けることができようか」

この節から、神は管理者であり、創造主であり、その創造は恒久的なものであるということがわかります。神の措置は、創造物を創造し、傍らに置くことではなく、神からは刻々と存在物に恩恵がもたらされ、それぞれの創造物がその清らかな性質から生命を受けます。コーランの解釈では、彼が万物の創造主であることから、創造の始まりなど、生命世界の創造は、すべて神の手によるものです。言い換えれば、神による創造は生命世界の運営と切り離されることはなく、原則として一連の生命の運営は創造を伴っているのです。

神の呼び名であり、コーランの数多くの節に出てくる言葉の一つは、ラブです。ラブという言葉は、もともと、あるものの所有者を意味し、その養育と改善を行う者を示します。イスラム教徒が毎日の礼拝の際に唱えるコーランの第1章もまた、このラブという言葉が使われた文句から始まっています。世界の神は創造主であり、創造物の所有者であると同時に、それらを育成し、高める存在です。すべての生き物は、神の管理と養育のもとにあり、神は創造物と近く恒久的な関係を有しています。それゆえ、すべての賞賛は神のためにあるのです。神はこの美しい生命の世界、そしてそこに存在するすべての教養の所有者です。生命の世界における神の運営は、最も善良な行為です。

そうです、世界や人間の運営に影響を及ぼすのは神なのです。世界の運営に神の許しなくして何物も介入することはできません。神は他の助けがなくても世界を運営することができます。存在物の運営には、維持や保管、生命を与えたり、奪ったり、糧を与えたりといった多くの事柄があります。何よりも重要なのは神は存在物を幸福や完成に導く、ということです。

その一方で、世界の存在物の中で、人間は意志と権限を持って創造されるなど、特権を有しています。その結果、人間は善と悪の道を選択する権限を与えられています。しかしながら、誰が人間を正しく理解し、その精神的な特徴を正確に把握することができるのでしょうか。創造主よりも人間について知っている存在はありません。神だけが、人間といった権限を持つ存在のために人生の方針や善の道を示し、人間に対してその権限をどのような方法で利用するかを定めるにふさわしい存在なのです。言い換えれば、神だけが人間のために法規や制限を定め、命令することができるのです。こうした中、慈悲深い神は至高なる教えや啓示により、また預言者を送ることで、この重要な事柄を実現しています。

神について繰り返し述べられている性質のひとつに、慈悲深さと慈愛があります。この慈悲は、敵や味方、信者と不信心者、善人と悪人といった創造物すべてに対して注がれるものです。慈悲深い雨は、平等にすべてに注がれ、恩恵は惜しみなくすべての場所にもたらされます。すべての僕は生命の様々な恩恵を享受しており、自らの糧を神の尽きることのない恩恵から受けます。これこそが神の普遍的な恩恵であり、すべての生き物が含まれるものです。一方で慈愛は神の特別な慈悲を指し、それは敬虔な僕、善良な僕、従順な僕に注がれるものです。彼らは教えに従い、正しい行動を取ることで、堕落し腐敗した人々が受けられないような特別な慈悲や許しを受けることができます。

慈悲深さは、コーランのあらゆる箇所に絶対的な形で出てきており、その普遍性を示しています。その一方で慈愛は、ときに制約された形で述べられており、それは特定のグループに注がれるものです。コーラン第33章アルアハザーブ章、部族同盟、第43節には次のようにあります。

「神は信者に(常に)慈愛を注ぐ」

預言者ムハンマドの貴重な言行録をご紹介し、今夜の番組を終えることにいたしましょう。預言者はこのように述べています。

「偉大なる神は100の慈悲を有している。そのうちの一つは地上に下され、創造物の間で分けられた。人々の間にもたらされた愛情はこれによるものだが、残りの99の慈悲は自身が持っており、最後の審判の日に僕に与えられるものだ」