モハッラム月、イマームホサインの殉教を追悼する月
再び、イスラム暦モハッラム月がやってきました。
モハッラム月は、イスラム教徒の心に、壮大なイマームホサインの蜂起の記憶を蘇らせる月です。この月は、シーア派3代目イマーム、ホサインの名と、イスラム暦61年、西暦680年に彼が時の暴君ヤズィードに向かって起こした蜂起を思い起こさせます。
イスラム暦61年のイラク・カルバラでのイマームホサインの蜂起の英雄伝は、時代や場所の枠を超えた出来事でした。この壮大な運動は、地理的、歴史的な枠を超え、あらゆる時代に影響を与えています。イマームホサインの蜂起のメッセージは、今も、多くの人の良心を目覚めさせ、圧制や不公正への抗議に立ち上がらせています。そのため、イマームホサインの蜂起は、イスラムだけでなく、世界の歴史において、大きな重要性を有しているのです。
神の預言者やイマームたちは、神の宗教を確立し、圧制や腐敗と戦い、人間の幸福と自由のために努力する中で、歴史を通して、多くの困難に耐えてきました。彼らの運動に神聖さを与えているのは、その宗教的で清らかな動機でした。イマームホサインの蜂起もまた、宗教的な動機によって実現されたものでした。
総体的に見て、イマームホサインの蜂起の動機や理由のすべては、宗教の復活という崇高な目的の中に見出すことができます。明らかに、イスラムは、預言者とその一門の大規模な努力の賜物であり、彼らはさまざまな時代に、異端と逸脱をこの宗教から吹き払おうとしました。預言者の死後に起こったさまざまな出来事は、無明時代の伝統や信条を復活させるために多くの努力を行った人もいれば、信条の弱さゆえに彼らに同調した人、また沈黙によって、このような流れを認めた人がいたことを物語っています。
イスラムの預言者ムハンマドは、その精神性にあふれた偉大な人格と永遠の使命により、当時の社会に根本的な深い変化を生み出しました。しかし、預言者の死後、無明時代の伝統や慣習への回帰の流れが高まり、宗教に数々の異端や逸脱が持ち込まれる土台が整いました。とはいえ、あらゆる変化や革命の後には、過去の信条や慣習の痕跡が残るものであり、社会が昔の伝統に戻る可能性が生まれます。ウマイヤ朝がイスラム世界を支配したことで、このような流れが、イスラム社会で、ひそかに、しかし急速にイスラム社会を、純粋な教えからの逸脱へと引き込みました。このような状況の中で、イスラムの預言者が闘争の対象としていた無明時代の風習や信条の一部が復活しました。この流れは、ウマイヤ朝の末期、そしてヤズィードの統治時代に最高潮に達しました。
ウマイヤ朝時代の末期にはムアーウィヤの後、彼の息子のヤズィードが権力を握りました。ムアーウィヤは、シーア派2代目イマーム・ハサンとの間に和平の契約を結んでおり、自身の後継者を選ばないことを約束していました。しかし、この契約は破棄され、ヤズィードが権力を握りました。ヤズィードは、自身の統治を存続させるためには、宗教の最も明らかな教えや戒律をも無視したり、歪曲したりすることも辞さなかったのです。ヤズィードは、イスラム教徒を統一するのに全くふさわしくない人物であり、イスラムを全く守らない態度をあらわにしていました。
イマームホサインは、圧制者が宗教の旗を掲げて人々を支配し、それを隠れ蓑にして、イスラム以前の無明時代を新たな形で復活させようとしていることを知っていました。彼らは神が合法としていたことを禁じ、神が禁じていたことを合法としていました。そのため、イマームホサインは、ヤズィードに反対する目的について、次のように語りました。エ「私は先祖の共同体を改革するために立ち上がり、勧善懲悪を実現し、自らの先祖であるイスラムの預言者ムハンマドの伝統にしたがって行動する」
イマームホサインは、為政者たちは正しい道を歩まないと考えていました。預言者のようなたぐいまれなる指導者を経験していた社会は、そのとき、ヤズィードのような堕落した為政者による統治を目にしていました。当時のイスラム領土では、公正や正義の痕跡は見られませんでした。ウマイヤ朝の統治時代、預言者が強く反対していた人種的なこだわりや部族主義が復活し、時の経過とともに、過去の伝統が社会に広まっていました。こうしてイスラム社会は、急速に、純粋なイスラムの教えから離れていったのです。
このような中で、イスラムの預言者一門とその一部人物、そして預言者の教友たちは、啓蒙に努め、そのような流れに対抗していました。しかし、ふさわしくない人物が権力の頂点に立ち、人々の思想に悪影響を与えていたため、少しずつ、イスラムの思想的な根本や内容は孤立していきました。例えば、預言者の時代、礼拝だけでなく、政治や社会活動の中心地であったモスクは、少しずつ、その本来の役割を失い、個人的な礼拝の場となってしまったのです。
宗教を名目に、メッカ、メディナ、ダマスカス、クーファ、バスラのモスクで行われていた儀式は、人々や自分を欺くための、魂のない儀礼的なものとなっていました。礼拝行為のすべてからは、その機能や影響力が失われていたのです。一方で、イスラム教徒は、周囲の政治的、社会的な出来事に無関心でした。一言で言えば、彼らは宗教の現実から離れていたのです。ウマイヤ朝は、具体的な計画や目的により、イスラムの形だけを維持し、その中身を消滅させようとしていました。このような状況により、社会の人々は無関心になっており、一部の長老たちでさえ、宗教を憂慮するのではなく、自分たちの物質的な利益を心配する有様でした。
そのような状況を、イマームホサインのような人物は、黙って見過ごすことはできませんでした。イマームホサインは、ヤズィードのような人物の政治に対して沈黙することは、イスラムの消滅につながることを知っていました。ヤズィードは、イマームホサインにどうにかして忠誠を誓わせようとしましたが、イマームホサインはそれを拒み続け、ウマイヤ朝の圧制者に対抗することを決意したのです。
イマームホサインは、その運動の中で、社会の特定の階層や一般の人々の見識を高めることを強調していました。社会に好ましい見識を持たせ、眠っていた良心を目覚めさせることは、イスラム共同体の指導者の責務のひとつです。そのため、イマームホサインは、折に触れて人々の啓蒙に努めました。イマームホサインは、その闘争の中で、屈辱を離れ、栄誉を求める精神を広め、その道において、人間の尊厳と自由を強く訴えました。イマームホサインは、その運動のあらゆる段階において、こうした理想を口にしていました。
イマームホサインは、このような原則を守ったうえで、イスラム共同体の中に、英雄伝を築く精神と自尊心を蘇らせ、それを永遠のものとしました。イマームホサインは、人々に対し、いかなるときも、圧制者による支配を受け入れてはならず、人間の幸福を目的とした神の命に対してのみ頭を垂れるよう伝えていました。イマームホサインは、そのたぐいまれなる蜂起によって、美しい真理を描きました。その真理とは、圧制や醜さが人類社会を支配し、善や美徳の光が消えたときには、たとえ人間の命が犠牲になったとしても、宗教的な価値観を復活させるために立ち上がらなければならない、というものだったのです。
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