対馬丸撃沈事件から78年 那覇市で慰霊祭開催
太平洋戦争末期、沖縄から本土への疎開児童ら1800人近くを乗せた対馬丸が米潜水艦による魚雷攻撃で撃沈した事件から22日で78年を迎えました。この日、那覇市にある対馬丸犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」では慰霊祭が開かれました。
琉球新報によりますと、慰霊祭は新型コロナウイルス対策のため、遺族や来賓の出席はなく、那覇市の対馬丸記念館の職員ら15人のみで行われました。
事件の生存者である高良政勝さん(82)は式典の中で、ウクライナ戦争に触れ、「武器で戦うのではなく、言葉を交わすことで物事を解決してほしい。対馬丸の子供たちはそう願っているでしょう」と語りました。
対馬丸はもともと日本郵船が所有していた民間貨物船でしたが、1941年9月から日本陸軍に徴用される「A船」、翌年6月からは船舶運営会所属の「C船」として、各種輸送作戦で使用されました。
1944年、戦況の悪化により米軍の沖縄上陸が確実になると、政府は沖縄県に対し女性や子供を中心に本土へ集団疎開させる方針を決定します。しかし、すでに多くの艦船を失っていた海軍は疎開用の船を出す余裕がなく、対馬丸をはじめとした民間のC船が活用されることになります。
同年8月21日18時35分、対馬丸は同じく疎開者を乗せた和浦丸および暁空丸とともに、長崎を目指して那覇港を出港します。護衛には海軍の駆逐艦「蓮」と砲艦「宇治」が同行しました。
対馬丸には児童と一般の疎開者合わせて1788名が乗船しました。児童の多くは、旅行気分ではしゃいでいたといいます。
しかし、対馬丸の航路周辺の海域では、米軍の潜水艦の活動が活発になっていました。そのため、船長はジグザグの航路で進むことを希望しましたが、同乗していた陸軍担当者は早期の長崎到着を優先し、直線航路を指示します。
翌22日午前4時過ぎ、米軍潜水艦ボーフィンはレーダーで対馬丸一行を探知します。その後追跡を続け、同日22時過ぎ、6本の魚雷を発射、うち3本が対馬丸に命中しました。
児童らは救命胴衣を着けて眠っていましたが、多くが船内から逃げる間もなく海水に飲み込まれました。運よく甲板に脱出できた子供たちも、海に飛び込んだ際に多くが溺死しました。
対馬丸に同行していた他2隻の船と護衛の海軍艦船は、二次被害を避けるためすぐに現場から退避し、児童らの救援にはあたりませんでした。そのため、一命をとりとめた子供たちは、救命筏に乗って自力での漂流を余儀なくされます。
漂流中には、激しい飢えやのどの渇きが子供たちを襲い、ここでもさらに命が失われました。
最終的に漁船に救助されたり、島などに漂着したりして助かった児童はわずか59名でした。対馬丸に乗船していた1788名のうち、死亡したのは氏名が判明している分だけで1484名にのぼります。そのうち784人が児童でした。
事件後、日本軍や警察は、対馬丸撃沈の報が知られることは国の不利益になるとして、生き残った子供たちに対して、対馬丸について口外しないよう脅迫します。そのため、事件を知るのは噂を聞いていた沖縄県民がほとんどで、本土では戦後になっても一般には知られていませんでした。
その後、生存者や遺族による地道な証言活動が続けられたほか、1982年には事件を描いたアニメ映画『対馬丸 さようなら沖縄』が公開され、ようやく本土の人々も知るところとなります。
今月19日には、対馬丸記念館に展示されている犠牲者の遺影に、新たに3人の写真が加わりました。これで同館には404人の犠牲者の遺影が展示されています。