この世界の真実を語るコーランの一節
歴史を通じて、人類は自らの必要を満たすために努力してきました。それは、人間が常に何かを必要とする生き物として創造されたからです。人間が陥りやすい過ちは、この必要なものを間違って認識する、あるいは必要に対して間違った解を採用することです。
人間がそうした危険を回避するために預言者たちが贈ってくれたのは、神の教えに他なりません。イスラムの聖典コーランのように、そこに書かれた真実を実践すれば、人間の内面に大きな力と自由を与えてくれます。ここでは、イラン・イスラム革命最高指導者ハーメネイー師のコーラン解説を見ていきましょう。
コーランのアル・ハディード(鉄)章第20節には、次のようにある。
「あなたがたの現世の生活は遊び戯れに過ぎず、また虚飾と、たがいの間の誇示であり,財産と子女の張り合いに過ぎないことを知れ。(現世の生活を)例えれば慈雨のようなもので、(作物は)成長して不信心者(農夫)を喜ばせる。やがてそれは枯れて黄色に変り、次いで粉々になり果てるのをあなたがたは見るであろう。だが来世においては(不義の徒に)厳しい懲罰があり、また(正義の徒には)アッラーから寛容と善賞を授かろう。本当に現世の生活は、虚しい欺時の享楽に過ぎない」
この節は、我々の人生についての真実を明らかにしてくれる。
来世のない現世は、すべて見栄の張り合いと物欲である。それは、子供だましに過ぎず、何の役に立つかもわからない。すべてが虚しく、ただ虚飾だけがある。我々に本当に必要なものは満たされず、名声の取り合いだけであり、実際には何の利益もない。目的もなく、ただ物質的財産を増やすだけの競争である。
この節が語るのは次のようなことである。
人間は子供のうちは遊んでいる。思春期は無為に過ごし、青年期はこの世の装飾に目を奪われる。老年期になっても名声や財産をかき集めるのに必死だ。
この世は遊びに過ぎない。遊びには、のめり込まないようにしなければならない。上手くいっているからといって傲慢にならず、上手くいかなくても失望する必要はない。
コーランはこの世が遊びであることを強調している。しかし、この世には落とし穴もある。例えば、日々の娯楽、常に鏡の前に立って自分の顔を眺めたり、日々異なる流行を追いかけたり… あるいは名声を追い求め、飽くなき物欲に溺れる。
コーランから見たこの世は次の一言に尽きる。「どれを取っても落とし穴。いつ見ても気忙しい」