視点
ハラブチェの悲劇、化学兵器使用の歴史
イラクの独裁者サッダームフセインは、1980年代のイラン・イラク戦争の中、イランの都市を化学兵器で攻撃し、恐ろしい犯罪に手を染めました。この攻撃の中で、10万人以上が殉教あるいは負傷しました。
国際社会の沈黙の中、サッダーム政権は、もうひとつの犯罪行為として、1988年3月16日、イラク北部のクルド人居住地域、ハラブチェを化学兵器で攻撃しました。この攻撃により、5000人以上が死亡しました。
当時のイラクの政権は、化学兵器による攻撃の中で、神経ガスなどの致死性のある有毒ガスを使用しました。イランはハラブチェの事件が起こる前、国連事務総長宛に書簡を送り、サッダームフセイン政権が大々的に化学兵器を使用していたことに触れ、この攻撃の調査を目的とした国連の専門家チームの派遣を要請していました。
サッダームフセインは、ハラブチェ攻撃の前の1987年6月、イラン西部のサルダシュトに対して化学爆弾を投下しました。この空爆の中で、100人以上の民間人が死亡し、8000人以上が有毒ガスの被害を受けました。これは都市部の民間人の居住地を化学爆弾で空爆した、世界初の戦争犯罪でした。国際社会の沈黙、西側の国連安保理決議の採択却下により、サッダームフセインは化学兵器による大量虐殺を継続したのです。
国連は1984年、半ば公式とされている報告の中で、イラクは有毒ガスをイラン軍兵士に使用しているが、そのうちの30件は都市や村の非軍事的な場所に使用されたとしています。当時の国連事務総長は、この報告の4年後、イラクがハラブチェに化学爆弾を投下した際、遅れた反応を示し、地域に専門家を派遣しました。このグループは、イランとイラクで化学兵器が使われたとする調査結果を、国連事務総長に提出しました。
国連安保理は1988年5月9日、化学兵器の使用を非難する決議を採択しましたが、イラクを化学兵器使用国とすることはありませんでした。この決議は単に化学兵器の使用禁止を勧めるのにとどまっており、一方では、ドイツやオランダ、フランスやベルギー、ロシア、アメリカの数十の企業は、イラクに対する化学物質の移送と、その使用技術の移転に関与していました。実際、イラクに化学兵器を輸出していた国々による犯罪を非難する中での、国際社会の沈黙と、国連安保理決議の否決は、サッダームフセインが化学兵器による大量虐殺という犯罪を続ける要因となりました。
イラクの化学兵器による最初の攻撃は、1981年にさかのぼります。このときからイラン・イラク戦争終結まで、イラク軍は3500回以上にわたって化学爆弾を投下し、戦場や両国の国境地帯の村や町で10万人以上の人々を殉教あるいは負傷させてきたのです。サッダーム政権に対する支援により、サッダームフセインはイランに対する戦争の中で、非人道的な犯罪を行い続けてきました。
サッダーム政権はアメリカのゴーサインで開戦したイラン・イラク戦争の中で、80年代の終わりごろから、アメリカやフランスなどの数カ国の直接的な支援を受けて、化学兵器の製造原料を受け取りました。証拠では、アメリカも、1977年から1983年まで、イラクの破壊的な化学兵器の軍備にはっきりとした形で関与していたことが示されています。
また、これに関する文書では、トムソンCSF、アルカテルなど、フランスの兵器大手数社も、化学兵器の原材料など、数十億ドルの軍事物資をイラクに提供していたことが示されています。イラクはこうした可能性を利用し、化学物質を生産する工場を建設し、神経ガスなどの危険なガスを大量生産し、備蓄していました。これらの兵器は、イラン・イラク戦争中、盛んに使用されました。
大量破壊兵器の生産は、独立した政府や反米政府に対し、アメリカによってかけられる疑惑の種となる問題で、これによってアメリカはこれらの政府に国際的な政治圧力をかけています。一方、アメリカは生物兵器や化学兵器の廃絶に関する条約に違反している最大の国であり、サッダーム政権の支援も、化学兵器禁止条約への違反のひとつです。
歴史上で、初めて化学兵器が正式に使用されたのは1915年で、ドイツが第一次世界大戦で、ベルギー・イーブルを占領するために使用されました。この攻撃による死者は、5千人から1万5千人と伝えられています。その後、イギリスが1920年代に不明の毒ガスを、イギリスの植民地政権に対する抵抗勢力に加わっていた、クルド人が多くを占めるイラク人に対して使用しました。1935年から1936年にも、イタリア軍は第二次エチオピア戦争でマスタードガスをエチオピアやリビアの人々に使用しました。この攻撃で、1万5千人が死亡しています。
日本も、マスタードガスや塩素ガスなどを日中戦争で使用していましたが、それらの有毒ガスによる正確な死者数に関する報告は存在しません。
アメリカはベトナム戦争で、7200万リットルの枯葉剤を使用し、これにより数十万人が死亡、50万ヘクタールの農地と作物が被害を受けました。ベトナム外務省は、報告の中で、この攻撃により、500万人近くのベトナム人が被害を受け、40万人以上がそれによって死傷したとしました。
アメリカの新聞ニューヨークタイムズは、1994年2月14日、アメリカは兵器製造の原料を移送し、数千トンの生物兵器の製造を支援したと報じました。アメリカはABM条約やCTBT包括的核実験禁止条約の取り決めを否定しながら、明らかな形で化学兵器に関する条約に違反しています。アメリカは通商上の秘密や国の安全を守るといった口実により、いかなる軍事施設をも生物兵器に関して査察させる用意がなく、これは、1972年の生物兵器禁止条約への違反を覆い隠しているということを示しています。
アメリカとEUは、兵器廃絶の取り決めに違反し、中東を脅かしている、シオニスト政権イスラエルをどのような理由で放置しているのかに対して回答しなければなりません。シオニスト政権は大量破壊兵器の製造や使用に関する国際的な取り決めを守っておらず、アメリカは人種差別的なシオニスト政権を全面的に支援し、大量破壊兵器の開発と拡散を奨励しています。
化学兵器の使用を防ぐ中で、抑止力ある手段の一つは、化学兵器や生物兵器の使用を禁止する取り決めの実施です。1925年6月17日に成立したジュネーブ議定書により、この議定書に署名した政府は、窒息性ガスの使用の禁止を受諾しました。生物兵器についても、この中で禁止されており、これらの政府にはこの議定書の条項を守ることが義務付けられます。この条約では、毒性物質やその生産設備の直接的、間接的な移送、政府や政府機関、国際的な機関に対するこのような原料の製造にむけた支援や奨励は、禁止事項とされています。
そのほかの規約に、CWC化学兵器禁止条約があります。この条約は1992年9月3日、20年間の協議の後、成立し、これを受けてOPCW化学兵器禁止機関が、1997年、この条約の実施を目的にオランダ・ハーグで設立されました。現在、イランを含めた190カ国近くが、この条約に署名しています。
化学兵器による被害者は、長年にわたり、神経系統の麻痺、皮膚の激しい損傷、悪性腫瘍の発症、呼吸器官への損傷などに苦しめられ、多くの苦しみを経た後、死亡します。また障害児の出生、感染症、治療困難な血液系の病気の発症、これらは化学兵器攻撃による後遺症による、長期的な結果です。
イランはジュネーブ議定書の草案作成に関する協議の開始から、また、前段階の特別委員会設立から、最も積極的に活動してきた国のひとつです。イランは1997年、議会の承認により、化学兵器禁止条約に署名し、そのはじめから、常に化学兵器禁止機関執行理事会のメンバーであり、最大の化学兵器の犠牲者を出した国として、繰り返し化学兵器禁止条約を完全に実施し、その条約を違反しないよう、強調しているのです。
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