西部の犯罪を再考する | ミッチェル川虐殺:豪州先住民虐殺の象徴
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イギリス植民地主義者により豪州先住民が殺害された場所を示す地図
イギリスによるオーストラリアの植民地化は、同国の先住民に対する広範な暴力を伴うものでした。
【Pars Today国際】1788年にイギリス人がオーストラリアに足を踏み入れたことは、この地の先住民にとって暗黒時代の幕開けとなりました。最初のイギリス人の一団がオーストラリアに到着したと同時に、先住民との流血紛争が始まったのです。入植者らは農耕や牧畜のために先住民の土地を没収し、彼らの貴重な資源を奪いました。この行為は先住民の抵抗に遭ったものの、イギリスは激しい暴力と弾圧で応じたのです。その結果、オーストラリア大陸全土で流血を伴う紛争が勃発し、多くの部族が滅ぼされ、オーストラリア全土に虐殺の波が押し寄せました。虐殺、国外追放、持ち込まれた病気、そして組織的な政策によって、先住民の人口は急激に減少し、彼らを肉体的にも文化的にも滅ぼそうとする試みがなされました。
組織的な虐殺
イギリスの残虐行為の重要な側面は、大量殺戮でした。18世紀から19世紀にかけて、イギリス人入植者はオーストラリアで先住民に対する広範な虐殺に手を染めたのです。これらの虐殺には、集団銃撃、汚染された食料や水による大量毒殺、村落の焼き討ち、そして子供たちの強制移住が含まれ、これらはジェノサイド(大量虐殺)の過程の一部として総称されています。オーストラリアでのイギリス人入植者による先住民虐殺は決して単発的な事件ではなく、民族・文化浄化という組織的な政策の一環でした。これらの残虐行為は先住民社会に深刻な影響を及ぼし、その影響は差別と貧困という形で今なお尾を引いています。歴史的研究によれば、オーストラリアには先住民が組織的に殺害された虐殺現場が300か所以上記録されています。中でも、南東部ビクトリア州では、植民地化開始からわずか20年で先住民の人口が4分の3に減少しました。
注目すべき虐殺
‐ミッチェル川ー虐殺(クイーンズランド州、1860年代):1864年12月18日にオーストラリア北東部クイーンズランド州北部で発生したミッチェル川虐殺は、オーストラリア史上最大の流血事件の一つで、数十人の先住民アボリジニが警察とヨーロッパ人入植者によって殺害されました。この事件は、植民地主義者による先住民コミュニティへの暴力的な扱いの一例とされています。虐殺の間、国境警備隊とヨーロッパ人入植者はミッチェルリバー付近の地域を攻撃しました。彼らの主な目的は、土地占領に抵抗するアボリジニの集団を鎮圧し、殲滅させることでした。この攻撃で、女性や子供を含む30人から40人のアボリジニが殺害されたと報告されています。この虐殺は、19世紀を通じて幾度となく繰り返された先住民に対する植民地主義者のより広範な暴力行為の一部でした。
ミッチェル川虐殺の影響は甚大なもので、この地域の先住民の人口が大幅に減少し、生存者の多くも先祖代々の土地を追われています。そのため、この事件は歴史的不正義の象徴として先住民の集合的記憶に深く刻まれることとなりました。今日、研究者や人権活動家は、この虐殺をオーストラリアの暗闇の歴史の一部と捉え、先住民に対する文化的かつ物理的なジェノサイドの例だとしています。
- メイオール クリーク虐殺 (ニュー サウス ウェールズ州、1838 年): 入植者の一団が28 のアボリジニを虐殺した事件で、これは加害者が裁判にかけられ処刑された数少ない事件の1つとなっています。
- カンダ虐殺(タスマニア島、1828年):タスマニアの「黒戦争」の間、数十人の原住民が殺害され、島の原住民はほぼ壊滅しました。
- 集団毒殺:毒物で汚染された食物や水によって原住民が殺害された事例も、9件以上記録されています。
ジェノサイド政策
直接的な暴力は出来事の氷山の一角に過ぎず、イギリスは先住民の文化的・物理的な破壊を目的とした政策を追求しました。それらは、
- 先住民の子供たち(後に「拉致された世代」として知られる)の追放および、家族からの隔離
- 先住民の母語と儀式の禁止、そしてヨーロッパ文化の強要
- 土地の没収と伝統的な生活様式の破壊
であり、これらの行為は、総じて文化的・物理的なジェノサイドの試みとして認知されています。
アボリジニの反発と抵抗
しかし、先住民族アボリジニは広範囲にわたる暴力にもかかわらず、決して完全に屈服しませんでした。彼らは地域的な反乱、伝統の保存、そして歴史の口承を通して、自らのアイデンティティを死守しようとしたのです。しかし、植民地主義の圧力はあまりにも強烈だったため、多くのアボリジニのコミュニティは破壊、あるいは周縁化される運命となりました。
長期的な影響
イギリスの残虐行為は先住民社会に深刻な影響を及ぼしました。その結果は
- 深刻な人口減少と多くの部族の殲滅
- 今日まで続く貧困、差別、社会的疎外・孤立化
- 文化的アイデンティティの危機および、先住民の母語と伝統の喪失
とされています。
今日、オーストラリア先住民は今なお植民地政策に根ざした、高い投獄率、失業率、慢性疾患などの問題に苦しみ続けています。
自白と公式調査
近年、事実調査委員会は、オーストラリアでのイギリス植民地主義者によるジェノサイド(大量虐殺)を公式に宣言し、賠償と社会改革を求めています。英ニューカッスル大学で歴史学の教鞭をとるリンダル・ライアン(Lyndall Ryan)教授が主導するプロジェクトにより、オーストラリア国内の300か所以上の虐殺現場が地図化されました。オーストラリアの歴史家らも虐殺現場を地図化し、歴史的記録を残しています。今日、オーストラリアの政治家の中には、イギリスへの依存を終わらせ、これらの犯罪に対する歴史的責任の受容を求める声も出ています。
結論
オーストラリアにおける英国の残虐行為は、植民地主義的暴力と先住民族の破壊を企てた明白な例です。虐殺、文化・経済政策、そして子どもたちの追放・隔離は、いずれもジェノサイド的な計画に他なりません。オーストラリア政府は現在、この過去を償うための措置を講じたと主張していますが、歴史の傷は決して癒えることはありません。これらの残虐行為を記憶に留めることは、歴史的正義のためのみならず、将来におけるこのような悲劇の再発防止にとっても不可欠なのです。

