ハーフェズ、モハッラム月10日の伝説の賞賛者
今年のイスラム暦のモハッラム月9日にあたるタースーアは、イラン暦のハーフェズ記念日にあたりました。
イランにイスラムが入り、イラン人がイスラムを受け入れたことで、イスラム文化はイラン人の文化の分かちがたいものとなりました。イランの人々は自身をイラン人と認識する中で、イスラム教徒であることと、イラン人であることは、矛盾しないと考えていました。カルバラの出来事は、イラン人にとって特別であり、またイスラム世界の歴史における偉大な英雄伝とされています。イマーム・ホサインの蜂起は、完全に理性的な運動であり、その目的は、ウマイヤ朝の背信行為やイスラムの逸脱を正すことでした。彼らは知りながら蜂起し、殉教を覚悟し、自身の殉教により、ウマイヤ朝が合法性を失うのを早めたのです。
カルバラの出来事から学ぶべき重要な事柄のひとつは、人間が命をささげるのは、どの場所がふさわしいか見極めることです。圧制や不正が社会的な形であらわれ。個人が構造的な不公正に直面した際、つまり不正が伝統となり、すべての人に降りかかる場合、蜂起は避けられません。この蜂起は、理性的な要素を含むとともに、感覚的な要素も持っています。この中で、宗教的なものも含まれます。殉教もまた、理性的であり、感覚的なのです。
カルバラの出来事とイマーム・ホサインの殉教は、詩人にとって魅力的で、訓戒を与えるテーマであり、ペルシャ語の文学者の多く、または一部の世界の詩人に影響を与えました。イランの偉大な詩人シャムソッディーン・ムハンマド・ハーフェズもそうした詩人の一人で、彼は明らかな形でイマーム・ホサインの人格とその蜂起に対して、特定の意識を持っており、彼の名を作品の中に、敬意を持って、生き生きとした形で記しています。イランや世界の文学における、ハーフェズのイスラム思想家としての高い地位に注目し、ハーフェズがイマームホサインに愛着を持っていたしるしが、彼の詩の中に見られるのは、予想できることです。
ハーフェズの芸術とは、詩だけではありませんでした。彼は深い見解を持つ思想家で、新たな思想を持つ宗教家であり、有能な演説家でもありました。彼は自身の信条や思想を言葉にして、すべての時代の人々を魅了しています。ハーフェズの詩の言葉はあいまいさや秘密が含まれていますが、これはハーフェズが生きていた時代、彼を嫉妬の目で見るものが存在し、このため、単純な形で対話するのが不可能だったからです。彼は秘密を含んだ言葉を選び、友人や、秘密を知る人物だけが意味を取れるようにしていました。彼が詩の中で選んだ言葉は、詳細に説明することのできないものがあり、自身の安全を守っていました。ハーフェズはこのような秘密を含んだ言葉により、アーシュラーの出来事やイマーム・ホサインやその一族、教友に起こった出来事について、多くの詩の中で描き、預言者の一族に対する愛を表明しました。
ハーフェズよ、真理に向かう一族の道を歩むなら
ナジャフの長の意志は見送りに出る
このハーフェズの詩の中にある「一族の道」という言葉について、ペルシャ語文学を専門とするジャラーロッディーン・ホマーイー教授は、一族が預言者ムハンマドの一族であり、「ナジャフの長」としているのはシーア派初代イマーム・アリー以外ないとしてます。ハーフェズがスンナ派かシーア派かという議論については、以前から見解の対立が存在していましたが、議論する必要もないでしょう。なぜならその詩は彼の信条や思想を誠実に映し出すものだからです。現代のハーフェズ研究者、バハーオッディーン・ホラムシャーヒー氏によれば、ハーフェズの詩は特定の集団の思想を含んでおり、われわれ全員の集合的な伝記で、このため、さまざまな感情を持った人々が、彼の詩の純粋な教条の中で、それぞれ自身の役割を果たしているということです。ハーフェズは詩の中で、カルバラの英雄伝について語り、しばしば抒情詩の中でそれを詠んでいます。
ウマイヤ朝のムアーウィヤは、正統性あるカリフに背き、カリフを世襲制にし、息子のヤズィードをカリフに選びました。ヤズィードはムアーウィヤの死後、父の位を継ぎ、イスラム暦60年のラジャブ月、西暦の680年ごろ、カリフの位を継承したと宣言し、メディナの長官に対し、イマーム・ホサインとほか2名にヤズィードへの忠誠を誓わせるよう要請しました。この要請は多くの妨害に直面し、彼のカリフ宣言に多くのイスラム教徒が抗議しました。この3人に加えて、預言者ムハンマドの教友や、イラクのシーア派、ハワーリジュ派が、カリフの世襲制は預言者と正統カリフの伝統に反するとしました。
イマーム・ホサインはヤズィードへの忠誠の誓いを拒否し、ヤズィードを預言者ムハンマドの代理とは認めず、また、ヤズィードのカリフ就任は、イスラムの滅亡と、預言者ムハンマドのすべての苦労を無駄にする行為だということをよく知っていました。彼は何があってもヤズィードと戦おうと決心し、この結果、イマーム・ホサインとその一族は殉教し、預言者の一族は捕虜となりました。彼が断固とした手段をとることを決めたのは、義務感によるもので、この義務を果たす中で、すべてのものを手放す用意ができていました。彼は祖先の宗教を改革するため、蜂起したのです。
イマーム・ホサインは蜂起の準備を行いました。さまざまな人が、現世の利益から、イマーム・ホサインの蜂起をとどめようとしました。イマーム・ホサインは、愛を持って道を歩み、勧善懲悪を実施し、ヤズィードに反対し、イスラム共同体と世界を救済するという与えられた義務において神の道を歩む以外のことを考えませんでした。
イマーム・ホサインとその一団がカルバラに着いてから9日がたち、水の補給がたたれました。彼らが預言者の一族やイマーム・アリーの子孫であることは忘れられてしまいました。ハーフェズはこれについて、次のように語っています。
水は与えられない、のどの渇きに苦しむ者たちには
まるでこの地から去ったよう、 聖なる一門を知る者が
イマームホサインの同胞で、勇敢な人物であるアボルファズル・アッバースはイマームの子孫や家族が水がなくて困っているさまに耐えられず、勇敢にも敵の軍の方向に水を求めに行き、殉教しました。ハーフェズは彼の美しい姿を、さまざまな比喩表現で描写しています。
10日目の朝、完全に不利な戦いが始まりました。すべての教友は勇敢に戦い、英雄伝を作り上げました。正午の礼拝の時刻となり、イマーム・ホサインの教友は、若い甥のアブドッラーと病気にかかっていた、後のシーア派4代目イマーム・サッジャードしか残っていませんでした。イマーム・ホサインが礼拝をささげられるよう、彼のさきがけとなると主張していたアブドッラーは戦場に赴き、殉教しました。イマームホサインは礼拝をささげ、敵によって殉教しました。ハーフェズは詩の中で、イマーム・ホサインの罪のない清らかな斬られた首という表現を抒情詩の中で用いています。
神に対する人類すべての愛を凝縮したイマーム・ホサインの聖なる血は、容器からこぼれ出た赤いぶどう酒のように、彼の礼拝していた場所に注がれました。ハーフェズはこれについて、つぎのような詩を記しています。
礼拝の場所を酒によって染めよ、異教の長いわく
旅人は家路や慣習を知らないわけではなかった
イスラム暦61年のモハッラム月11日、西暦680年10月中旬の朝、捕虜の一団が現在のイラクのクーファの方向に向かわされ、その後、シリアに連れ去られました。ヤズィードが開いた集会の中で、カルバラの英雄、ゼイナブの説教は、ヤズィードとその軍の汚さを暴き、これは歴史に永遠に残りました。それから長年がたち、イマーム・ホサインや預言者の一族を愛する人々はアーシュラーの出来事を鮮明に記憶にとどめ、この日に際して行われた追悼儀式で、ウマイヤ朝の一族の犯罪を暴いたのです。
ハーフェズはこのことについて、次のように詠んでいます。
利己的に行ったことすべては、最終的に悪名となった
人が集い、語られる中、秘密をどのように隠せようか