イランとアメリカ
1953年8月のクーデター
1953年8月19日のイランにおけるクーデターは、2つの外国の政府の、直接的かつ明確な干渉により、国民的な政権を転覆する方向で行われました。しかし、この干渉行為は、どのような目的で行われたのでしょうか。
1908年、初めてイランで石油が発見され、イギリスを筆頭とした西側諸国は、この貴重な石油を収奪しようとしていました。また、イランの人々は石油産業に従事していませんでした。パフラヴィー朝政権当時のオムラーニー労働次官は、次のように語りました。
「石油企業は、国営化されるまで、体制の中で独立していた体制だったのが事実だ。例えば、仕事のために我々が赴いたときも、石油企業は、イラン政府の関係者には用がないとして、イラン政府に従うことはなかった」
1951年3月20日のイランの石油企業国営化は、イランと西側の関係の新たな時代の幕開けとなりました。イランのモサッデグ首相は、合法的な形で首相に就任しました。モサッデグ首相は、石油産業の国有化計画により、イランにおける拡張主義的な大国の利益が脅されることになるという、優れた措置を取りました。それでは、モサッデグ首相は次のように語っています。
「今日という日は、あなた方イラン国民が自身の社会史、そして経済史における神聖なページを新たに開くことができる日だ。私はあなた方親愛なる祖国の人々が、イランの威信、国民の自尊心、祖国愛により団結する道を選ぶようになるということに、疑いを抱いていない。もう一度、我々は価値の高い遺産を守り、先人たちの偉大さを有していることを、私たちを注目している世界に対して示さなければならない」
イギリスはイランの石油を利用できなくなり、彼らの利益は危機に陥りました。国際新聞クリスチャン・サイエンス・モニターはモサッデグ政権の転覆の際、次のように記しました。
「明らかに、もしモサッデグ政権が転覆していなければ、1、2ヶ月の間に、イギリスの政権は崩壊していただろう。そして後のイギリスの政権は、イランの石油問題を人道的に、世界的に賞賛されるような形で解決し、イギリスの行き詰まりを打開するため、モサッデグ政権に対して軟化した態度を示さなければならなかっただろう」
イギリスはクーデターに解決法を見出し、また、1953年の冬、アメリカのアイゼンハワー大統領が大統領に当選しました。アイゼンハワー大統領は、最初の公式演説で、イランについて次のように語りました。
「世界でイランよりも地理的に重要な地域があるとは考えていない。イランは軍事大国になるべきではなく、またイランが遠い過去に戻り、軍事大国になるという状況を進展させてはならない。イランにおける軍国主義が復活したとき、どうなるのか。イランの歴史を勉強すべきだ。そうすれば、私の言葉を理解するだろう」
アメリカは、1953年8月19日のクーデターに直接関与したことから、特定の目的を持っていました。アメリカのクーデターの主要な動機とは、アメリカの政治家が、アメリカの石油企業もイランの石油生産の分け前をあずかるようになりたいと考えていたことにあります。
しかし、一部のアナリストはアメリカの行動について、イランのクーデターにおけるアメリカの政府関係者の主要な動機はイランで共産主義政権が誕生する危険を恐れたことによるものだったとしています。アメリカは冷戦開始の時期から、イランがソ連とペルシャ湾岸の産油地帯の間に位置していたため、西側にとってイランは重要だとしていました。アメリカのアイゼンハワー大統領は、次のように語っています。
「アメリカ政府はイランなどのアジア諸国における共産主義の影響の拡大を防ぐため、必要な措置を行い、このために必要な決断を行う。遅かれ早かれ、共産主義の影響を、我々が行動すると決定したアジアの国において制限しなければならない」
当時の議員で、モサッデグ首相の友人だったプールファーテミー氏は、次のように語っています。
「アメリカの国務長官は私に対して、イランの石油を国民の手にゆだねるなどばかげていると語った。もしイランがモデルとなれば、我々はラテンアメリカやそのほかの石油のパートナーに対して、どのような対応すべきか」
このようなアプローチにより、1951年6月、イギリス保守党の党首チャーチルと副党首のイーデンは、イギリス外務省に対し、アメリカと共同で、イランの王にモサッデグ首相の弾劾を求めるよう提案しました。この提案はクーデターにより実施されました。アメリカの実業家、カーミット・ルーズベルトは、これについて、次のように語っています。
「イランのクーデターは、外国の政府に対して行われた、初めての秘密作戦で、この計画はCIAがトルーマン政権末期に立案した」
アメリカの歴史家、ピーター・デビッド氏は、このクーデターにおけるアメリカの干渉の結果について、このように述べています。
「イランにおける干渉の代償は、我々にとって大変高くついた。アメリカの石油企業と同調する必要性により、アメリカはイランの問題への干渉という問題に巻き込まれ、その結果、内政不干渉という原則に違反した」
アメリカ民主党のサンダース上院議員は、CNNのインタビューで、イランのクーデターにおけるアメリカの干渉について、次のように語っています。
「国民によって選ばれたモサッデグ首相の弾劾は、イランにおける民主主義プロセスでの悲劇だった。私の話で重要なポイントは、アメリカはほかの国の体制転覆を追求すべきではない、ということだ。つまり、アメリカは合法的、倫理的にほかの国の政権を転覆する権利を持っていないと思う。この努力はたいてい、逆の結果を引き起こしており、各地における多くの情勢不安を引き起こしてきた」
1979年のイスラム革命以後のアメリカの方針は、依然として、イランのイスラム体制の転覆を目指して作られています。しかし、タバス砂漠での作戦など、アメリカの侵略行為は失敗に直面しました。こうした中、アメリカはイスラム体制を敗北させるために多くの努力を行っています。
アメリカのブッシュ政権は、ネオコンの起用により、体制の転換を目指していました。イランの体制転換も、明らかにブッシュ大統領の中東における戦略の大きな目標となっていたのです。
特にアメリカ外務省関係者を中心とした、一部のアメリカの政府関係者は、ソフトパワーという概念に従い、チェコスロバキアのビロード革命のように、イランを非軍事的な方法で、内部の反体制派を強化し、経済的な圧力をかけ、滅ぼすことができると考えていました。一方で、チェイニー元副大統領のような一部の政治家は、軍事力などのハードパワーの行使以外に、イランのイスラム体制を転覆する方法はないと考えていました。
アメリカのオバマ大統領が就任し、アメリカの民主党政権が誕生すると、アメリカの外交政策にも変化が生じ、イランに対する対応において、ソフトパワーの行使が注目されました。実際、ネオリベラリズムの有識者、特にソフトパワー概念の提唱者のジョセフ・ナイの思想の定着化は、このプロセスを加速しました。
ジョセフ・ナイ氏は、ソフトパワーとハードパワーの相互作用を提唱しました。この戦略によれば、アメリカの対イラン戦略として、政権と国民の間に溝を作り、イランの2009年の暴動のような状況が生まれる下地を作り出す努力が行われることになります。
トランプ大統領の就任により、アメリカのイランに対する敵対的行動は、新たな方向に向かいました。この政策の基本的要素は、制裁、軍事的な選択詩の行使による脅迫となっています。全体として、アメリカの対イラン政策は、1953年8月のクーデターからこれまで、3つのレベルに分類することができます。
一つ目は、政治的、経済的な目的により、イランにアメリカとって都合のよい体制を作るための政策です。1953年のクーデターはこのレベルで行われました。2つ目のアメリカの対イラン政策は、地域的な目的によるものです。この目的は、特に冷戦時代以後、重要とされていきました。しかし、3つ目のレベルは、核問題やイラン恐怖症の吹き込みなど、イランを孤立化させる目的での、国際レベルでの行動です。
1953年のクーデターは、イラン国民に対してアメリカの本質を明らかにし、このため、イランの歴史における外国の干渉の転換点となりました。このクーデターに関する、後にアメリカやイギリスの諜報機関により公開された文書は、アメリカとイギリスが、このクーデターによりイランを直接的に支配する目的を持っていたことを示しています。
CIAやアメリカ国務省が2000年6月に公開した文書に記されている、アメリカが認めた事実によれば、イギリスの治安機関の代表はモサッデグ政権の転覆と完全に自分たちに癒着した政権のすり替えをCIAの代表に提案し、アメリカは1952年3月にこれに肯定的な回答を示しました。
実際、アメリカはかなり前からイランへの干渉を自国の権利とみなし、このような考え方により、イラン国民の独立を妨害し、イランのイスラム革命が勝利し、アメリカがイランから手を引いたときも、アメリカの陰謀はイラン国民を標的にし、イスラム体制を脅かしてきました。
アメリカのオバマ大統領は、モサッデグ政権が転覆され、それから25年間続く、シャーの権力基盤が強化されることに繋がった、1953年のクーデターにおけるアメリカの役割をはっきりと認めています。オバマ大統領は2009年、エジプト・カイロ大学での演説でこの問題に触れ、さらに2013年の国連総会でも、このテーマに触れてきました。
オバマ大統領は上院議員だった2006年に記した『合衆国再生』という著作の中で、1953年のクーデターについて語り、この行動は、アメリカ政府の度を越えた他国への干渉と、有力な政治家を支援することによる各国間の同盟の構築の典型だとしています。
実際、1953年のクーデターは、どのような角度から見ても、アメリカの偽善を証明する出来事であり、また、「アメリカは信用できない」としてイラン国民に向けられた、アメリカの真の本質を認識する上での、イランの歴史上の教訓のひとつでもあります。