イスラムの3つの教義(音声)
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神の唯一性、預言者の使命、最後の審判と来世、これはイスラムの3つの教義となっており、イスラム教徒は、これら3つの事柄を信じています。
(last modified 2025-10-27T05:05:03+00:00 )
6月 28, 2016 15:44 Asia/Tokyo

神の唯一性、預言者の使命、最後の審判と来世、これはイスラムの3つの教義となっており、イスラム教徒は、これら3つの事柄を信じています。

宗教の教義は、イスラム教徒の思想的な基盤を形成しており、神、人間、創造世界に関する宗教思想や世界観の基盤となっています。この中で、神の唯一性と預言者の使命という2つの教義は、イスラムを受け入れる上での条件です。イスラムを受け入れ、イスラム教徒と見なされるためには、この原則を心から信じることで十分です。重要なのは、それが、他者に強制されたり、模倣したものではなく、自分の意思によるものであることです。

 

神の唯一性、預言者の使命、そして最後の審判に加え、シーア派が宗教の教義として強調しているのは、正義とイマーム制です。すでにお話したように、イマーム制とは、イスラムの預言者ムハンマドが亡くなっても、人類と啓示の源である神とのつながりは、完全には断たれません。預言者の一門である12人のイマームが、次々に現れ、イスラム教徒を導く責務を負います。その最後となるのが、12代目のイマーム、マハディです。イマームマハディは現在、隠れた状態にありますが、いつの日か現れ、人類世界を、圧制や不公正から救います。また、公正とは、神はすべての創造物を作った存在であり、いかなる僕にも圧制を加えません。常に公正であることは、神の性質のひとつです。

 

では、どのようにすれば、イスラム教徒になれるのでしょうか

澤田師の説明にあった方法により、あらゆる人は、神の唯一性とムハンマドが預言者であることを証言すれば、イスラム教徒と見なされます。同時に、イスラム教徒には、イスラムが人間の幸福のために定めている宗教的な戒律を守ることが義務とされます。また、一部の好ましくない行いは、イスラム教徒に禁じられています。

 

注目に値するのは、原則的に、理性や論理と同じように、宗教もまた、全てに通用するということです。つまり、イスラム教の戒律は理性に反したものではありません。イスラムの特徴は、教えの中で、人間の肉体、精神、理性、感情、個人的側面や社会的側面の全てに注目していることです。今日、科学の発展や思想の拡大により、神の法則や戒律が持つ、医学的、道徳的、精神的な効果が明らかになっています。フランスの著名な哲学者、アレクシス・カレルは、次のように語っています。

 

「神への祈りの効果は、科学によっても理解することができる。祈祷は、精神的な状態だけでなく、肉体にも影響を及ぼし、時には、短期間のうちに、肉体的な病を改善することもある。このような発見は、理解が難しいが、その分だけ事実を認める必要がある。祈祷による多くの病気の治療について、200以上の事例もある」

 

とはいえ、人類の知識は、神の無限の知識に比べると、非常にわずかなものであることに注目する必要があります。そのため、神の法則や戒律の効果、哲学が理解できないからといって、それについて考えることをやめてもよい、ということにはなりません。

 

イスラムの教えは概して、3つの部分に分けられます。宗教の教義、道徳、戒律です。宗教の教義は、イスラム教徒の思想的な基盤を築いています。道徳とは、イスラム教徒が身につけるべき性質です。そして戒律とは、人間が個人的、社会的な活動に関して守るべき指示や責務となっています。イスラムの宗教義務には、礼拝、断食、ホムスやザカートと呼ばれる喜捨、メッカ巡礼、神の道における戦い、勧善懲悪、預言者一門とその統治を心から受け入れること、反対に、その敵に嫌悪を表すことがあります。ここからは、これらの宗教義務について順にみていきましょう。

 

人間は、寛容な神に対して、非常に無力な存在です。人間を、唯一の偉大な神と結び付けるのは、礼拝と祈祷です。礼拝は、神に対する人間の謙虚さのしるしです。そのため、イスラムにおいて、神への崇拝の最高の形です。礼拝は、イスラムで宗教の柱とされています。

 

イスラム教徒は、朝、正午、午後、夕方、夜の一日に5回、決められた時間に、特別な作法によって礼拝に立ち、創造主である神と語り合います。礼拝は、起立した姿勢で、コーランの節を読むことで始まり、ロクーと呼ばれる中腰で礼をする姿勢をとります。1セットの礼拝の終わりには、2回、サジデというひれ伏す姿勢になります。それが終わったら、再び立ち上がり、次の1セットを始めます。礼拝の際に唱える言葉は、神の唯一性、預言者の使命、最後の審判、イスラムに存在する社会的な問題に関する重要な知識が詰め込まれたものです。そして毎回、預言者と敬虔な人々、預言者の一門に敬意を表して礼拝を終えます。

 

朝の礼拝は2セットで、日の出までの明け方に行われます。正午と午後の礼拝は4セットで、それを行う時間は、正午から日の入りまでです。夕方の礼拝は3セットで、夜の礼拝は4セットです。夜の礼拝は、日の入りから夜半までの間に行われます。また、礼拝はなるべく、決められた時刻の早いうちに行われた方が好ましいとされています。礼拝の時刻を守ることは、宗教が、個人的、社会的な生活における規律の正しさを強調していることを物語っています。これら1日に5回の礼拝は、全部で17セットになりますが、これは義務とされています。この他に、行った方が望ましいとされる礼拝が、宗教の偉人たちから推奨されています。これらの礼拝は、個人でも集団でも行うことができますが、モスクで集団で行った方が好ましいとされています。

 

礼拝は、いくつかの準備が必要です。まず、サウジアラビアのメッカにあるカアバ神殿に向かって立ちます。礼拝の前には、まず手と顔を独自の決まりにそって洗い、顔と足を清めます。礼拝を行う際には、清らかな状態でなければならず、着ている物から穢れを取り除き、神の御前に清潔な状態で立つ必要があります。また、礼拝を行う場所、服装、体を清める水についても、不当に奪ったものであってはなりません。これは、礼拝者に、他人の財産や権利に対して責任を感じさせるためのものです。他人の権利が侵害されるような礼拝は、神に受け入れられません。

 

あるイスラム教徒は、このように語っています。「妻と子供と一緒に、中国に行ったときのことです。万里の長城に行くことになりました。そこには、様々な国から多くの観光客が来ていました。その壮大さに見入っていると、礼拝の時刻になったことに気づきました。私は体を清め、小さな礼拝用の敷物を広げました。方位磁石で礼拝の方角・キブラの方向を確かめ、礼拝に立ちました。そのとき、何人かの人が私の方を好奇心に満ちたまなざしで見ていました。私は周囲に気を取られずに、礼拝を行おうと努めました。最初の礼拝を終えたとき、何人かが私の周りに立っていて、驚いた様子で見ているのに気づきました。私は礼拝の精神性が彼らを魅了したのだと感じました。私が午後の礼拝を終えると、その後に妻も礼拝を始めました。彼女が礼拝をしていると、観光客がカメラを手に近づいて、私の家族の写真を撮ってもいいかと尋ねてきました。初めは断りましたが、観光客はなおも引き下がらず、彼にとって非常に興味深いのだと言いました。彼は、「礼拝のとき、そのような謙虚な態度で誰に語りかけるのか」と尋ねて来ました。私は、私たちはイスラム教徒で、礼拝は最も美しい宗教行為だと言いました。そして、礼拝によって、光と美の源である唯一の神と語りあい、神に、私たちをよい性質で飾り、この喧騒に溢れた世界で、私たちを常に見守ってくださいと祈るのだと言いました。この言葉はその観光客にとって印象的だった様子で、彼はイスラムに興味を持ったようでした」