8月 16, 2016 16:55 Asia/Tokyo
  • コーラン第25章アル・フォルガーン章識別
    コーラン第25章アル・フォルガーン章識別

今回からは、コーラン25章アル・フォルガーン章識別を見ていくことにいたしましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アル・フォルガーン章はメッカで下され、全部で77節あります。フォルガーンという名前は、この章の最初の節から取られたもので、真理と偽りを区別するという意味があります。

 

フォルガーン章ではいくつかの問題が述べられています。章の前半では、多神教徒の根拠のない脆い論理と、彼らの口実さがしが述べられ、それに対する回答が与えられています。最後の審判での人々の後悔、自然にみられる神の偉大さと唯一性のしるし、敬虔な人間と不信心者の比較、それらが、この章で述べられている事柄です。中でも最も重要なのは、神の真の僕たちの特徴に関する節でしょう。

 

多神教徒とユダヤ教徒、キリスト教徒はそれぞれが独自の形で、神には子供や仲間がいると信じていました。しかしコーランは、このような誤った考え方を完全に否定しています。彼らは、預言者の使命や導きは、彼自身が作り出した偽りのもの、あるいは、彼が先人たちの伝説を真似ているのだと言っていました。アル・フォルガーン章の第4節から8節では、多神教徒たちのイスラムの預言者ムハンマドに関する主張と、預言者の導きを受け入れないための彼らの口実の例が挙げられています。第7節と8節を見てみましょう。

 

「〔不信心者たちは〕言った。『食事をし、市場を歩くとは、どのような預言者だろうか?彼と共に警告を与えるために、なぜ天使が下されなかったのだろう? あるいはなぜ、彼に宝物が与えられたり、食べるための庭園があったりしないのだろう?』圧制者たちは言った。『あなたたちは、狂った人物に従っているに過ぎない』と」

 

この節の先は、このような口実により、彼らは真理の道を得ることができず、迷いに陥ってしまいました。

 

その後、アル・フォルガーン章の第10節は、彼らの根拠のない言葉を否定し、預言者に向かってこのように語りかけています。

 

「神に祝福あれ。神はお望みであれば、彼らの期待以上のものを汝に与えるだろう。小川が下を流れる庭園や豪華な宮殿を汝に与えるだろう」

 

神はアル・フォルガーン章の節の中で、預言者を慰めるために、以前の預言者たちが辿った運命を述べています。彼らもまた、自分の民の反対を受け、道に迷った多くの人々が、神の預言者たちを否定しました。しかし、彼らは預言者に反対したために、最も厳しい責め苦に遭いました。コーランは、彼らの物語を、口実を探す頑なな不信心者にとっての教訓として述べています。

 

預言者の時代、多神教徒の中に、オグバ・イブン・アビー・モイートとアビー・イブン・ハラフという2人の友人がいました。オグバは旅から戻るといつも食事会を開き、貴族に食事を振舞っていました。彼はイスラム教徒ではありませんでしたが、よく預言者に会いに行っていました。ある日、オグバは旅から戻り、いつものように友人たちを家に招待しました。そして預言者のことも招待しました。食布が広げられ、食事が用意されると、預言者は言いました。「あなたが神の唯一性と私が預言者であることを証言しない限り、私はあなたの食事を口にしない」 オグバはそのとき、信仰を告白しました。

 

友人のアビーは、それを聞くと、「自分の教えを捨てたのか?」と、オグバを強く非難しました。オグバは言いました。「いや、私は自分の教えを捨てたわけではない。しかし、私が招待した人の中に、信仰を告白しなければ、振舞った食事を食べないという人物がいた。私はムハンマドが食事を口にせずにそこを去ることを恥じたために、信仰を告白したのだ」 アビーは言いました。「あなたがムハンマドに対抗し、彼を侮辱するまで、私はあなたに満足しないだろう」 オグバはその友人の言葉に従って行動し、信仰を捨てました。最終的に、オグバはバドルの戦いで不信心者として殺害され、友人のアビーも、オホドの戦いで死亡しました。

 

これについて、アル・フォルガーン章の第27節から29節が下され、道に迷った友人によって、真理の道から外れた人物の運命が述べられました。この3つの節は、圧制者たちが、過去の自分の行いを強く悔いる姿が描かれています。

 

「圧制者は両手をかみながら言う。『私も預言者に従っていたら。あの人物を自分の友人に選んでいなかったらよかったのに。彼は私に近づき、私を真理から迷わせた。悪魔は常に、人間を辱める存在であった』」

 

 

本当に、その日は後悔の日です。その日、人間は、自分の過ちによって、最悪の状況における永遠の生が待っていることを知るからです。数日間耐え忍び、努力すれば、それを、栄光と幸福に満ちた生に変えることができたはずでした。独裁的な圧制者たちは、悔しそうにこう言います。「道に迷った人間を友人に選ばなければよかったのに。そうすれば、信仰の光りと目覚めがやって来て、幸福に近づいていたことだろう。だが、あの愚かな友人が私を道に迷わせ、不幸という沼に落としたのだ」

 

明らかに、友人や仲間は、人間の人格形成に重要な役割を果たします。人間は望むと望まざるとに拘わらず、自らの考え方や道徳的な性質の重要な部分を、友人や付き合う人物から得ます。この節の内容と、それが下された背景は、人間が幸福の寸前に近づいたとしても、悪い友人の悪魔のささやきによって後退し、最後の審判で両手をかむほど後悔することになるということを示しています。シーア派9代目イマーム、ジャヴァードは次のように語っています。

 

「悪友と語り合うのはやめなさい。悪友は剣のようで、表面は美しいが、その影響は非常に悪いものだ」