アーザリー族
今回はイランの民族の一つ、アーザリー族についてお話しすることにいたしましょう。
アーザリー族は、イランの民族で、アーリア系の民族です。アゼルバイジャンという名前は、アゼルバイジャンをアレキサンダー大王の支配から救い出したイランの将軍アトロパテスに由来します。この地はアトロパテネ王国の前、小メディアと呼ばれていました。アゼルバイジャンの住民はアーリア系メディア人の子孫です。現在のクルド人やロル族も彼らの血を引く民族です。
アゼルバイジャンでトルコ系の言語が広まる前、イラン語系のアーザリー方言がこの地域で使われていました。アーザリー方言はパフラヴィー語の系統で、イランへのアラブ人の襲撃とイスラムの到来後も、しばらく使用されていました。しかし、11世紀から12世紀のセルジューク朝時代のトルコ系の民族の襲撃と共に、アゼルバイジャンに彼らの言語が広まると、次第にアーザリー方言は衰退していきましたが、今も一部の村や地域でその名残が見られます。
トルコ系の民族は、家畜を放牧する民族で、セルジューク朝時代に、アゼルバイジャンの緑豊かな牧草地を襲撃しました。地域の住民が襲撃者と交わったことにより、次第にトルコ系の言葉がアーザリー方言の中に取り入れられていきました。時間の経過により、侵略者の影響力が拡大し、住民はトルコ系の民族の支配下に置かれました。これにもかかわらずトルコ系の言語が完全にアーザリー方言に取って代わるまで700年かかりました。一つの言語が消え、それが他の言語に取り込まれた例は歴史の中でも多く見られ、例えばエジプトや北アフリカの人々の言葉は、アラビア語に取って代わられました。
現代のアジアの多くの民族は祖先が話していた言葉を話していません。中央アジアではペルシャ語、ソグド語、パルティア語がトルコ系の言葉に取って代わられました。しかしながら、一言語の影響が必ずしも民族の分野を狭めることにはなりません。このためアゼルバイジャンに住む現在の民族は過去の時代の祖先の直系であり、私達の時代まで、文化や歴史、民族、人種のルーツを維持しています。
イランのアーザリー族は主に、東・西アーザルバイジャーン、アルダビール、ザンジャーン、ハメダーンの一部を含む北西部に暮らしています。この民族はイスラム教シーア派を信仰していますが、中には、スンニー派やアラウィ派もいます。
19世紀のロシアとの戦争で、イランが敗戦したこと受け、イランからコーカサス地方が分離し、ロシア帝国に併合されました。これは現在のアゼルバイジャン共和国を含みます。1813年のゴレスタン条約と1828年のトルコマンチャイ条約は、イランとロシアの国境を設定しました。この条約により、そこに住むアーザリー族はアラス川をはさんで母国イランから切り離されました。1991年のソビエトの崩壊を受け、アゼルバイジャン共和国は独立国となりました。
アーザリー族はイランの人口のおよそ25%を占め、その多くが都市部で生活しています。アゼルバイジャンの最も重要な民族は15世紀のサファヴィー朝イスマイール王の時代からアゼルバイジャンにいたシャーフサヴァン族です。また二番目に重要なのは、サファヴィー朝の前にアゼルバイジャンにいたゲゼルバーシュ族です。
三番目に重要なのは、アラスバーラーン族で、多くが森林・山岳地帯で暮らし、放牧をして生活しています。彼らは1年のうち、夏と冬に居住地を移動する遊牧民です。
アーザリー族の祝祭には、宗教的なものの他に、ノウルーズ、結婚、求婚、収穫に関するものがあります。これらの祝祭では様々な競技や舞踊が行われます。
アゼルバイジャン地方の名物、名産には、絨毯、フェルト、木工、石・金属製品、お菓子、ナッツ、乳製品などがあります。山のふもとにある鉱泉やアラス川周辺、またタブリーズやアルダビール、マークー、サルエイン、ウルミエといった都市、アラスバーラーンの森林などがアゼルバイジャンの観光地となっています。
アゼルバイジャン各地の女性の衣装には多くの共通性があります。全般にアルダビールの女性の衣装はこの地域の女性の民族衣装の標準となっています。男性は上着にズボン、切れ込みの入った帽子を身に着けています。女性は様々な色の花模様のついたスカーフ、ゆったりしたズボン、チョッキ、コインが縫いこまれた袖なしの衣装を着ています。