11月 27, 2016 17:22 Asia/Tokyo
  • イスラムがイランに入ったことによる人々の服装変化

7世紀、イスラムがイランに入ったことで、人々の服装にわずかな変化が見られました。一部の歴史的な資料は、このような変化について触れています。今回は、これらの変化についてみていくことにいたしましょう。

これまでの番組の中で、7世紀からのイラン人の服装についてお話しました。この時代の人々の服装については、残っている資料によるもので、その多くは、宮廷の人々や為政者の衣服、あるいは正式な衣服に関するものです。

 

ウマイヤ朝時代の傾向は、新たなスタイルを取り込みながら、アッバース朝の初めまで続きました。これらの傾向は、イラク・サマラにある宮殿の陶器の壷や壁画に見ることができます。それらは9世紀のもので、男性は、袖が短くて身体にはりつくような分厚い上着を身につけていました。彼らのズボンは装飾が施されており、ショートブーツの上にたくし上げられていました。

 

これらの男性の服装は、明るい緑、赤、ピンクといった色をしていました。サマラの壁画の貴族や戦士たちは、皮のベルトをしています。この種のベルトは、それ以前にも、イランの古代遺跡、ターゲボスターンにある狩猟の場面の石の彫刻にも描かれています。

 

イスラム初期の絵画を見ると、2本のベルトを締めるのが主流だったようです。上にあるベルトは、社会的な階層を示し、下にあるベルトは、戦いの道具を吊るすために使われていました。さらに、イラン北東部ネイシャーブールにあるサブズプーシャーン宮殿の壁画には、2本の剣がつるされた3本の長いベルトが見られます。

 

この時代で興味深いのは、クーフィック書体の刺繍が見られることで、この時代に流行していたようです。アメリカの東洋学者、チャールズ・ウィルキンソンは、9世紀のイランで見られた腕のバンドは、中国の洞窟の壁画に見られる衣服によく似たものだとしています。これらの絵画はマニ教に関するもので、イスラム以前、そのような何も書かれていない腕のバンドが、イラン人の間に広まっていたことを示しています。イスラム以降には、何かが書かれた腕のバンドが流行していました。

 

考古学者は、イラン北東部ホラーサーン州のネイシャーブールで、皮で覆われた陶器を発見しました。これは9世紀から10世紀にかけてのものです。この作品は、サーサーン朝時代からアッバース朝時代までのイラン人の服装を示しています。皮のカバーには、羽の形をした袖のある男性の衣服が描かれています。

 

この陶器や当時の別の資料から分かるのは、男性が、足首から膝にかけてゲートルを巻いていたことです。このゲートルは、部族の衣服の特徴のひとつで、当初、アケメネス朝時代に、その後、サーサーン朝時代にイランのさまざまな部族が身につけていました。これらは皮や布でできていました。この頃、ゲートルは男性の衣服の一部だったようで、公式、非公式のあらゆる場面で使用されていました。

 

7世紀のイラン人の服装に関する貴重な資料のひとつは、965年に記された、アブドゥル・ラフマン・スーフィーの記述です。この記述は、彼の息子によって、1009年、「ソワロル・カワーケボッサーベタ」という書物にまとめられました。この書物の中では、当時の男女の服装について、正確な詳細と共に描かれています。男子はチュニックのような服を身にまとっていました。このチュニックは、腰の下から前が開くようになっていて、下にはズボンを履いていました。このズボンは膝までの長さか、かかとまでの長さの幅の広いものでした。チュニックは、袖の長いシャツの上に身につけられていました。

 

この書物では、当時の様々な種類の帽子、頭に被るものについて触れています。中でも最も流行していたのは、幅の広いターバンのようなもので、直接、頭に巻かれていました。衣服や布の専門家であるラーダン・ホッラミー氏は、この時代の帽子について、次のように語っています。「セルジューク朝時代の男性の被り物は、帽子やターバンであった。それまで、帽子は流行しておらず、ターバンや、頭髪を守るための装飾用の帯が巻かれていただけだった。一時期、フェルトなどでできた、装飾の施された帽子が作られ、前の部分に、花や植物がつけられていた」

 

イスラム初期の女性の服装は、男性に比べて多様性が見られません。イラク・サマラの宮殿の壁画に描かれている女性は、丈の長いスカート、袖の長いチュニック、シンプルな靴を身につけています。また、金の装飾のついた丸い帽子を被っており、真珠のヘアバンドとイヤリングをしています。女性の衣服は、ピンクか青で、サーサーン朝時代の皿の形を連想させるものとなっています。

 

この他、女性は袖が短いチュニックを身につけていて、その下には長袖のシャツを着ていました。この種のチュニックは、それ以前の時代、中央アジアの男女の服装に見られるものでした。