1月 31, 2017 16:08 Asia/Tokyo
  • ガズニー朝時代のイランの人々の服装

前回の番組では、セルジューク朝時代のイランの人々の服装についてお話しました。今夜の番組では、ガズニー朝時代のイランの人々の服装、特に帽子についてお話することにいたしましょう。

ガズニー朝時代の王たちの服装で最も重要な部分は、王冠でした。王冠は、イスラム後にはほとんど見られませんでした。ガズニー朝時代の王冠は非常に繊細で、金でできており、その後、さまざまな宝石で装飾されていました。この王冠は、木の葉のようなギザギザの突起がいくつもあり、その先は上に向かっていて、半球がのっていました。フェルドウスィーの代表作、シャーナーメの挿絵からは、ガズニー朝の王たちが、先のとがった突起がいくつもある冠も利用していたことが分かります。

 

ガズニー朝の王たちは、王冠だけでなく、、帽子やターバンも被っていました。インドの昔話、ケリレとデムネによれば、ガズニー朝の王や王子の帽子の周りには、子羊の皮でできた幅の広い紐が巻かれ、頭が入る部分はドームのように丸くなっていて、頭頂部には鳥の羽のようなものが付けられていました。

 

当時のイランの歴史家ジュズジャーニーは、次のように記しています。「ガズニー朝のバフラームシャー以前、この王朝の王たちは、髪の毛をたらし、円錐形の帽子を被っていた。それから、2、3回、その周りにターバンを巻いていた。その上にさらに、黒い色の布を巻き、髪の毛をトルコ人風に結っていた」

 

一部の歴史資料では、羽(or翼)のついた冠をかぶった宮廷人の姿も見られます。これらの冠は、もともと、サーサーン朝の宮廷における儀式用の被り物に倣ったもので、その例は、シリアにある宮殿の漆喰細工に見ることができます。

 

冠は、12世紀末までに、“皇帝が被るもの”という概念を失い、貴族の被り物、装飾となりました。陶器や漆喰細工には、ハスの花の形をした宝石の傍らに、対になっている羽のデザインの冠があります。 この時代、被り物の新たなスタイルの中には、さまざまな大きさや形の帽子があります。

 

毛皮で飾られた狩猟用の帽子は、イラン北東部のネイシャーブールにあるセルジューク朝時代の壁画に見られます。その他の帽子は、丈が長く、ほぼ円錐形をしていました。丸い形の帽子は両側、あるいは前の部分に雄鶏のとさかの形をした飾りがあり、宮廷の人たちによって利用されていました。

 

概して、帽子や被り物の新たなスタイルは、円形や円錐形、そしてつばのあるデザインが広まり、中央アジアでそれ以前に見られたものに似ていました。宮廷の人々や為政者たちによって最も好まれていた帽子や被り物は、太い毛皮のリボンのついた円錐形の帽子で、前の部分には、丸い金属製のプレートがついていました。この帽子は、イランやメソポタミア北部の陶器の器に描かれています。

 

インドの昔話ケリネとデムネには、いくつかのターバンのデザインが見られます。そのうちの1つは中央に帽子が描かれており、首の後ろを隠しています。ほかの2つのデザインでは、帽子が見えなくなるほどにターバンが巻かれています。また、今から1000年ほど前に書かれたアラビア語の書物マカーマート・アル・ハリーリーには、王のターバンが、比較的小さな帽子のまわりに巻かれ、巻ききれずに残ったターバンの両先が帽子の傍らから飛び出ていて、前には、斜めになった紐が見られます。この紐には、アラビア語のアルファベットの装飾が見られます。また、シンプルな鉢巻を額に巻く場合もあり、前の部分に宝石がついたものもありました。

 

ガズニー朝とセルジューク朝の時代、人々の服装は、それまでよりも多種多様なものとなりました。さまざまな趣味や流行が、彼らの衣服や帽子、靴に影響を与えていたようです。12世紀末から13世紀にかけて、位の高い男性や為政者は、丈の長いブーツをはいていました。もっとも、これは遊牧民の間では靴として用いられ、アケメネス朝時代以降のイランの古い習慣とされていました。

 

セルジューク朝以降のブーツの形を見分けることは困難です。それは、多くの場合においてブーツは衣服の後ろに隠れていたからです。しかし、それらは幅が細く、つま先はとがっていて、恐らく、やわらかい皮でできていたと考えられています。陶器のデザインにおいても、それらの色は、黒、茶色、赤、青、緑で描かれています これらのブーツの中には、膝まであるものもありました。

 

このようなスタイルは、サーサーン朝以降の銀の器にも描かれています。ほぼ常に、男性の帷子は、ズボンと共にブーツの中にしまいこまれていましたが、ブーツから幅の広いズボンが外に出ているスタイルも見られます。

 

もっとも、下層階級の男性たちは、ブーツと帷子を一緒には身につけてはいませんでした。これまでに残っている資料において、彼らは、パン屋や肉屋と同じようにはだしで、幅広の白いズボンを履いているのみであり、兵士や警護兵は、袖なしの丈の短い上着に太いズボンといういでたちで描かれています。