7月 25, 2017 00:02 Asia/Tokyo
  • 人間が持つ自然的なマイナスの感情、欲望

今回は、人間が持つ自然的なマイナスの感情の1つである、欲望についてお話することにいたしましょう。

人間は、一生を通して様々な感情を生み出し、性格を形成していきます。こうした感情や性質をうまくコントロールできれば、個人的、社会的に、より健全な生活を送ることができます。既によく知られているように、自分のよい性格を高め、また、よくないところを減らすことは、1つの技術と言えます。

原則的に、多くの人々は自分の悪質な部分を制御する上で、問題を抱えており、この性格が強くなることで、根本的な問題が表面化します。こうしたマイナスの性格の1つが強欲であり、倫理学では強欲とは、性質の1つであり、これにより、満足することなく、必要ないものをかき集めるようになる、と説明されています。

 

多くの人々は、安らぎに恵まれていながら、欲の強い性格のために安らぎを感じられず、常に精神的な苦痛にさいなまれています。この性格により、今自分が持っているものの価値が分からなくなり、常にないものねだりに走ります。その結果、今自分が持っているものを最大限に活用できなくなります。こうして、欲の強い人間は次第に卑屈になり、栄誉や名声から遠ざかっていくのです。

コーランによれば、欲の強さは人間の本能的な性質の一部ではあるものの、決してその人の本質的な欠陥とは見なされないとされています。それは、こういった性格は、初期的な段階であれば、成熟する手段となるからです。それにより、努力を怠らず、常により高い目標を目指すようになります。

この性質が知識の獲得に利用され、学問に夢中になれば、その人は成熟に至る手段を見出したことになります。しかし、それが現世の物欲や悪事に利用された場合には、その人が不運に陥る要因となります。この性質はいわば、原子力のようなものです。原子力が産業や経済のニーズを満たす形で使われれば、確実に有益なものとなります。ですが、破壊的な爆弾を製造するために使用された場合には、世界の安全をも危険に落としいれることになります。このため、物的な目的を追求したり、好ましくない状況を招く場合には、強い欲は非難されることになります。

 

神は、コーラン第100章、アル・アーディヤート章、「進撃者」第8節において「人間は富を愛することに熱中する」と述べています。この節によれば、人間の特質の1つは富や物質に強く執着することとされています。この特質が大きくなると、好ましくない行動や性質となって現れます。もっとも、生活面での幸福を維持するといった場合の物質面への注目は、強欲とは見なされず、むしろ賞賛されています。時には、社会、経済、文化的な要素により、人々の欲望を肥大することになる場合もあります。

 イランの一般心理学の専門家であるハキーメ・アーガーイー博士は、欲張りな人々の人格的な特徴の形成には、遺伝的な要因よりも環境や教育の役割が大きいと考えており、次のように述べています。

「時折、私たちの中にこうした感情が沸き起こり、社会では日増しに欲が強くなっていく。また、時には足ることを知らず、既に自分が相当なモノを持っていてもまだ不満を抱えている人々が見られる。どうやら、私たちは互いに愛し合うのではなく、モノで自分の心を満たすという時代にいるように思われる。そして、こうした快楽は一時的なものに過ぎず、長続きしないため、結果的に我々は困惑することになる」

モノへの執着心は、それらを失うことへの恐れも呼び、精神面での大きな問題をもたらします。例えば、ある時期におけるインフレや物価高への恐れから、一部の人々が買占めに走ります。このようにモノを溜め込む行動は、経済、文化、社会的な不安定を引き起こします。

コーラン第74章、アル・ムッダスィル章、「くるまる者」では、次のように述べられています。“このような者どもは、どれほど多くの物的な恩恵にあずかっていても満足せず、その欲望はさらに肥大する。もっとも、こうした欲望が原因となって、人間は神の定めた規則や節度を超え、他人の権利をも侵害する。彼らは、孤児たちの富や相続遺産にまで手を伸ばすものであり、恵まれない人々や飢餓に苦しむ人々の身になって共感することはない”

 

コーランの視点による解釈では、欲張りな性格の根源は、今自分が持っているものに満足できず、常に他人の持っているものや財産に目がいってしまう精神に探求すべきだと考えられています。そうした人は、来世からの逃避を自らの生活の基本原則にすえてしまい、現世で全てのものを手に入れようとします。また、自分が他人より優れていると思い込み、他人のあら捜しに走り、自分だけが学識や知性を持っており、富をかき集めようとしない人やけちでない人は無知で了見が狭いと錯覚してしまいます。このため、そのような人は他人に施す人のあら捜しをし、裕福な人間だと自身をほめたたえます。コーラン第5章アル・マーイダ章、「食卓」第42節から44節には、そのような人は他人に施すこともなく、また施しをする人を非難し、神の掟や命に注目せず、聞き流してしまう、と述べられています。

しかし、コーランには、こうした行過ぎた欲望を制御するための方法が教示されており、その最も重要な方法は、日々の糧を与えるという神の属性に注目することだとされています。偉大なる神を信じ、神の満足を自らの人生の方針とする人は、富を溜め込もうとは考えないのです。また、日々の糧を与える神が全知全能であることを認識しており、努力しながらも、神をより所とします。寄付や施し、来世と復活を信じること、礼拝、真実を探求すること、約束を忠実に守ることなども、強欲から解放される主な要因といえます。