バース・オブ・ネイション「国民の創生」
前回のこの時間は、1915年のハリウッド映画、D.W.グリフィス監督によるバース・オブ・ネイション「国民の創生」についてお話ししました。
この中で、サウスカロライナ州の議会の場面について分析しました。今夜のこの時間は、この映画の別の2つの場面についてご紹介しましょう。その場面は、バース・オブ・ネイションが、映画を使って、どのように黒人を侮辱しているかを示しています。そして、この2つの場面を見ながら、グリフィス監督の映画が、なぜ黒人を侮辱しようとしたのかについて見ていきます。
バース・オブ・ネイションは、北部出身のストーンマン家と南部出身のキャメロン家の関係を描いています。この2つの家族は親密なつきあいをしていましたが、南北戦争が起こり、黒人がサウスカロライナ州を支配下に置くようになり、両家の関係は悪化します。
バース・オブ・ネイションは、黒人が、苦しい奴隷時代から解放された後、政治的、社会的な地位を得るようになり、それを悪用し、野蛮な人々であるように示しています。ここからは、白人を支持し、黒人を侮辱している例についてお話ししましょう。
バース・オブ・ネイションの126分から始まるシーンでは、ベン・キャメロンの妹のフローラが、山のふもとに水を汲みに行きます。その山のふもとでは、南北戦争の後にキャプテンになった黒人の兵士のガスが見回りをしています。体格のよいガスは、フローラに近づき、彼女に求婚します。
フローラは混乱し、ガスの大きな手を振り払って逃げ出します。黒人のガスは、彼女を追いかけ、自分は彼女を傷つけるつもりはないと訴えます。しかしフローラは逃げながら助けを求めます。
白人のベン・キャメロンは、妹のフローラが家にいないのを見て山のふもとに出掛けます。彼は黒人のガスとは異なり、身なりがよく、ガスとフローラが争った形跡を見て、不安を抱きながら妹を探します。この追跡のシーンは、クロスカッティングという手法によって、臨場感をあおっています。
クロスカッティングという手法は、異なる場所で同時に起きている2つのシーンについて、それぞれのショットを交互につなぎ、臨場感や緊張感といった演出効果を出すための編集技法です。逃げるフローラを追いかけるガスのシーンと、ベン・キャメロンが妹を探すシーンが交互に示されることで、視聴者に不安を抱かせます。その効果により、臨場感が増し、視聴者はストレスを感じ、思わず、野蛮な黒人から妹を救ってほしいとベンを応援してしまいます。
フローラはようやく、丘の上にたどり着きます。黒人のガスも、フローラから少し離れたところで立ち止まります。フローラは、「それ以上近づけば、そこから身を投げる」と伝えます。そのとき、ベン・キャメロンが遠くから妹のフローラを見つけ、彼女の名を呼びます。ガスは、フローラに近づき、彼女の手を握ろうとします。怖がっていたフローラは、その丘の上から身を投げます。
ガスは、フローラが地面に倒れているのを見て逃げ出します。ベンはフローラのもとに行き、彼女を抱きかかえ、治療のために家に連れて帰ります。その後、ベン・キャメロンは、クー・クラックス・クランという組織を結成します。クー・クラックス・クランは黒人のガスを見つけ出し、彼を殺害します。
実際、バース・オブ・ネイションは、クロスカッティングなどの技法により、黒人は野蛮でだらしなく、文化的で身だしなみの整った白人と結婚する資格はないよう人々であるように示そうとしています。白人は山のふもとを歩くのすら危険であり、それは自然の中が野蛮な黒人の場所であり、白人は彼らによって被害を被るかのように見せようとしています。
バース・オブ・ネイションの166分から始まるシーンでは、テロ組織のクー・クラックス・クランのリーダーであるベン・キャメロンの家族が、フィル・ストーンマンとともに丸太小屋で黒人につかまります。黒人は、キャメロンの家族の使用人たちを殺害し、彼らもとらえて殺害しようとします。
キャメロン家の畑に対する黒人の襲撃の知らせは、ベン・キャメロンの耳に届きます。彼はクー・クラックス・クランの一団を集め、畑へと急ぎます。クー・クラックス・クランが畑に入ります。そして黒人の武器を奪い、彼らを逃します。丸太小屋のすみで恐怖に震えていたキャメロンの家族と他の人々が外に出てきて、解放されます。
ガスとフローラの追跡のシーンでもお話ししたように、キャメロンの家族が救い出されるシーンも、クロスカッティングを使用し、黒人と白人の違いを示そうとしています。畑を襲撃する黒人と、人々を救い出そうとするクー・クラックス・クランの白人の集団の映像が連続して交互に示されます。
クロスカッティングの目的は、白人が繁栄をもたらす人々であるのに対し、黒人が破壊をもたらす人々であるように見せることです。この映画は、黒人は侵略的で野蛮であり、白人のみが人々を救い出すヒーローであるように伝えようとしています。
クロスカッティングは、臨場感を出し、ドラマチックな音楽により、黒人の手から白人を救う唯一の方法は、クー・クラックス・クランがタイミングよく現れることであるように示しています。シーンは次第に短くなり、生と死を巡るストレスが高まります。クロスカッティングは、クー・クラックス・クランが救世主であるように見せる上で効果的になっています。
実際、バース・オブ・ネイションは、奴隷制の廃止と黒人の解放は過ちであったように示しています。この映画は、黒人は社会の混乱を招く元凶であり、社会を救うためには、白人によって黒人をコントロールすることだと訴えています。黒人は破壊をもたらし、クー・クラックス・クランや白人は、社会と国家に秩序や平穏、安全をもたらすことができると主張しています。
バース・オブ・ネイションは、黒人は悪であり、白人は善であるように示しています。実際この映画は、黒人を現実的に示しておらず、歴史の中で彼らが経験した苦痛や文化遺産は全く示されていません。
バース・オブ・ネイションは、白人と黒人のアイデンティティをまったく対局に示し、互いに敵であるように示しており、白人と黒人の社会的な不平等を正当化し白人は黒人よりも優位であることが自然なことのように示しています。
社会的な観点から、バース・オブ・ネイションは、白人による統治を機能的なもの、黒人による統治は機能的ではないものに見せようとしています。そして、社会の改善は白人によって可能であると伝えています。
前回もお話ししたように、この映画を製作したグリフィス監督は、当時の黒人に関する考え方を映画によって描いています。バース・オブ・ネイションは、アメリカの復興に関して、19世紀末の歴史家や政治家が宣伝していたことを伝えようとしています。
ウッドロウ・ウィルソンの著書、「アメリカ国民の歴史」の第5巻には、グリフィス監督がバース・オブ・ネイションで描いた黒人に対する見方が記されています。実際、彼らは、このような人種差別的な考え方を広めようとしています。その考え方とは、社会に幸福がもたらされるのは、白人が権力のトップにつき、黒人が白人の支配下に置かれるときだというものです。